「民主的な教育ってなに?」がちょっとずつまとまってきた。

前からちょっとずつ発信し始めていた「デモクラティックエデュケーション」のイメージ。自分の中でだいぶまとまってきている。
一言でいうと、「民主的な環境のもとで、民主的な社会をつくる力をはぐくむ教育」。

  
とりあえず、現段階でのイメージをまとめて、積み上がっていく4段構造のモデルをつくってみた。多分、多くの人が「民主主義を教えよう!」とか言われた時に受けるような堅苦しい、難しい感じではない。きっと多くの先生たちが大事にしたいと思っていることと重なるものだと思っている。

 

f:id:mido1022:20180623230359p:plain

まず、子ども・学習者が権利の主体として尊重され、安心・安全な環境で、理不尽な抑圧や暴力を受けずに学び育てる環境であることが根本であると考え、1段目に置いた。多様なバックグラウンド、特性、能力を持っていることを前提に、マイノリティの子どもたちが不用意な言葉や環境で傷つけられないということ、場のルールづくりに子ども・学習者自身が参画できることなどもこの領域に含まれる。
 
そのうえで、自分の思いや考えを表現でき、かつ自分とは違う誰かの声に耳を傾け理解し合うコミュニケーション経験をたくさん積めることがとても大切な要素だと考えて2段目に置いた。自分も大事で、相手も大事。この感覚なしに、デモクラシーはない。

そして、3段目にスキル。誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えること。違う意見・考えの人と対話をし合意形成をしたり、もめごとを解決できること。民主的な社会をつくっていく上で、これらのスキルは欠かせない。

そして、一番最後に、トピック・テーマを置いた。社会や世界に実際にある諸問題を扱うこと。それを自分ごととして捉えることは、下段の経験を積んでいないとより難しい。一番上を扱う授業や教育実践は、アンテナの高い先生たちによって行われているし、教科書の中でも多少なりとも取り上げられているけれど、「今の問題」「自分の問題」として捉えるのが難しい現状がある。そのため、学校での学びがソーシャルアクションにつながることはどうしても少なくなる。

「1段目からやらないと意味がない」とか「下から順番に取り組んでいくべきステップ」だとは考えていない。また、すでに学校で取り組まれている事例もたくさんあると思う。これが私の目指したい公教育のすがたであるというのを示しただけ、と言えばそうかもしれない。
ただ、「誰もが自分を生きられる平和で幸せで民主的な社会・世界」をつくるためには、公教育の中でこれをやっていく必要があると、強く強く思う。

 
 * * *
 
また、こういう整理もしてみた。
これは、上の4段構造の「構成要素の図」とは違って、下から順番にしか階段を上がれない、と私は考えている。

f:id:mido1022:20180623235916p:plain

まず自分が自分にアクセスしている状態が第1ステップ。自分が何を求めていて、何を考えて何を欲しているのか。どうしたいのか、何が嫌なのか。それがつかめていて、大事だと思えていること。これがないままの他者尊重は、本来はデモクラティックなあり様ではない。

そのうえで、自分と同じ様に尊重されるべき意思をもった他者がいて、しかもそれは自分と違ったりする。ではどうする?と考え、話し合う。それが第2ステップ。

それが2人からもっと広がって、所属しているグループやコミュニティとしてどうするか?というレベルになるのが第3ステップ。みんなが幸せに過ごせるための仕組みやルールやカルチャーをつくっていく。

そして、その延長線上に、社会の仕組みやルールをどうする?というより高度で広範囲な問いが出現する。これが第4ステップ。社会について自分ごととして考えることは、その前の段階を踏んでいないとやっぱり難しい。逆に、それらを踏まずに語られる「社会ごと」はどこか心許ないと私は感じてしまう。

私は、この4つのステップが、「ここでは直結しているんだなあ」ということを北欧の社会に触れて感じた。そのことは以前このブログでも書いた。
 ↓

デモクラシーに根ざした、デモクラシーのための学校教育をつくろう。 - DEI by day - the way to democratic education -

まだまだ整理中の「民主的な教育/デモクラティックエデュケーション」ではある。
ともあれ、構成要素の4段モデルがある程度まとまったことで、自分がやるべきことはすごくクリアになった。
これらの構成要素について、現場に提案できる内容をまとめたり、参考になる事例を集めて整理する。それを再現可能なように、研修化、プログラム化するということ。
あー、スッキリ。
 
すでにやってきている部分もあるが、自分だけでは限界もあるので、いろんな人に助けを求めたりコラボをしながら、豊富化していきたい。
 
ヘイトスピーチのことは早急にやりたいのと、汎用性が高くて比較的取り組みやすい2段目、3段目に関する手立てをきちんと整理したい。(1段目の実現が、実は一番難点だと思っています)
 
そんなわけで引き続き考えつつ、手も動かしてまいります。

リスボンでピースボート下船しました

f:id:mido1022:20180616071020j:image


5月に出発し、今回は約1ヶ月半の乗船でしたが、できることはやりきった感あり。降りるまでは全然そんなことなかったのですが、港を離れていく船を見送って、デッキにいるみんなに手を振っているとめちゃくちゃさみしくなった。
それだけ、自分がこのクルーズに愛を注げたということかな、と思う。
  
今回も、「船旅を通して世界と教育を学ぶ」洋上プログラム・地球大学Global Teachers Courseのための乗船。
そもそも一周するつもりだったのだけど、コアプラスを抜けてフリーになったことで、3ヶ月半日本を離れるのが難しくなり、日本の仕事も大切なので迷いつつもこのタイミングで下船することに。
  
_______________________________________________
   
▼船ではこんなことしてました。
 
①地球大学Global Teachers Course
一期生のえびちゃん&ピースボートスタッフのさっちーがメインコーディネーターとして進め、私はそのサポートとアドバイス役。
  
20代〜30代の、30人の地球大学生たちいて、毎日ゼミがあり、そのとき船が通っている国や地域の問題を取り扱ったり、ワークショップをやったり。
(個人的には難民になる人たちの気持ちを考えるために「葛藤のトンネル」という演劇的な手法を使ったワークショップをつくることができたのが特によかった。改善点はあるけれど、日本でもアレンジしてやれそう。)
 
そして、一人一人の受講生の学びをどうサポートできるかを、3人で話し合いながら、全体のプログラムを進め、かつ必要に応じて個別にガッツリ話をする。
  
毎回そうですが、「自分の人生は自分がつくっている」「私たちの社会は私たちがつくっている」と前を向いて言える、責任を引き受け、自由と希望を持つことができる人が、ここから育ってほしいという思いで、やっています。
 
多くの受講生が順調に悩み、自分と、世界と、向き合おうとし始めていて、心強く、帰国後の彼ら彼女らに会うのが本当に楽しみです。
  
コーディネーターの2人と一緒にやれたのもすごくよかった。一期生だったえびの成長と、チャレンジっぷりがめざましく、本当に日々感動させられた。
 
②船内の文字メディアの発行

毎日出る「船内新聞」、5日に一回ぐらい出る「イベントガイド」の発行に責任を持つ、というのもやっておりました。
これも、メインで担当する2人のスタッフがおり、そのサポートと校正、必要な情報収集や調整をするというもの。
自分でも、文章たくさん書かせてもらいました。何の情報を何を目的に伝えるのかを考えながら工夫して文章を書くって楽しい。
特に、これまでと違って、今のピースボートは参加者の3割がアジアの国の人たち(中国・台湾・シンガポール・マレーシアetc)という状況で、多様性に配慮しながら、マイノリティが置いてけぼりにならないように日々必要な情報を伝え、それを豊かさとして受け止めてもらえるような記事を書く...というのはすごくおもしろかったです。
 
③自分でも講座やワークショップを実施
 
地球大学でいろいろ話したりワークショップをしたのはもちろん、地球大学以外の一般の参加者の方向けにもこんなラインナップで企画を実施。
 
・世界と、日本の多様な教育
・部落問題ってなに?
・発達凸凹〜自己理解と他者理解を深めよう〜
・世界の差別と貧困問題〜ロマ・ダリット・部落〜
・民主主義の根っこを育む北欧の教育
 
できれば、もっとまちづくりの話や、子どもの貧困の話や、地域通貨の話、仕事づくりとNPO運営の話...などもしたかったですが、残念ながら今回は時間切れ。
また乗ると思うので、その時にとっておきたいと思います。
 
④現地でのオプショナルツアーに同行
 
寄港地に着くと、ピースボートと一緒にやっている旅行会社ジャパングレイスが提供している様々なツアーが実施されます。
自由行動以外の参加者はそれに行きます。内容は観光、交流など様々。今回はほとんど観光ツアーでしたが、シニアの参加者の方とも仲良く楽しめることが多くて、充実してました。
シンガポールでは学校視察のツアーに同行。地球大学生たちがツアー報告会もしてくれました。
  
⑤その他もろもろ
あとは、いろいろ細々としたこともしておりました。ピースボートセンター(事務所)の片付け、多言語対応の船内企画運営の仕組みづくりサポートなど。私はピースボートがとても好きで、ピースボートという組織のサステナビリティを高めたいと思っているため、船に乗ると何でもやる。笑
 
今回は、ゲスト=水先案内人として乗られた下村健一さん、リヒテルズ直子さん、東ちづるさんにも大変お世話になりました。(宇井孝司さんとも飲みたかったけど実現できず残念…)
  
特にリヒテルズさんは、前回のGTC実施時に初めてお誘いしてご協力いただいて、今回で船でご一緒するのが2度目。
なんと20日間も船に乗っていただき、計7回のイエナプランワークショップと5回の一般向け講演会をしてくださいました。さらに、洋上運動会の審査員やら、取材対応までしてもらって、本当にめちゃくちゃお世話になりました。
  
_______________________________________________
 
今日・明日とリスボンで少しゆっくりさせていただき、その後移動して18日に日本に帰国予定です。
 
私の乗船中、仕事上、たくさんの方にご不便をおかけしました。ご理解とご協力、本当にありがとうございました。
留守を守ってくれたDemo(うちの事務所)のメンバーにも心から感謝しています。ありがとう!
帰ったらまたそっちの仕事をバリバリやります!
  
そして、今回やっぱりすごく手応えがあって、改めて、強く思った!
若い教育関係者/教育関係志望の皆さん、ピースボート乗船&地球大学GTCへの参加を心からおすすめします!
というわけで、興味がある方はいつでもご相談ください^^

 

「デモクラティックエデュケーション(民主的な学び・教育)」ってどういうもの?

f:id:mido1022:20150621115033j:plain

私の考えているデモクラティックエデュケーションというのは、民主的な環境の中で、民主的なあり方・民主的な社会づくりのために必要なことを学べる教育のこと。そういうものを広げていきたくて、自分でも、まだイメージが固まってない状況のまま、「デモクラティックエデュケーション」を発信しはじめている。
 
批判されるのが(頭では否定とは違うと思ってても)苦手なので、びびっているのですが、思い切ってどんどん書いたりしゃべったりして、反応をもらいながら、しっかりした概念にしていきたい。
  
というわけで、私の思ってるデモクラティックエデュケーションってどういうものか、ぐわーっと箇条書きで書いてみる。
 
・差別や抑圧やヘイトやテロのない社会、世界につながる学び。
・社会や世界の様々な課題について直接的に学びのテーマとして取り上げる。
・上記についてテーマについて頭で理解するだけでなく、"腑に落ちる"学びがある。
・社会問題やテーマもきちんと扱うが、その前提としての学びのスタイル、コミュニティとしてのあり方が民主的である。
・こどもの権利(子どもの権利条約)が前提にある。
・学習権宣言的な学び観。
・マイノリティが傷を負わされない。
・安心で安全な学び育ちの環境がある。
・教育と福祉の連携と協働がある。
・将来に向けて今我慢させるのではなく、今ここも将来も幸せでいることを大切にする。
・自分が何を求めているのか、どうありたいのか、自分で感じとり表現できる環境があり、それが尊重される。
・同じように他者にも尊重されるべき「こうありたい」「こうしたい」「こう生きたい」があり、それは尊重されるべきで、じゃあ自分の思いと食い違ったらどうする?ということを実際に経験から学ぶことができる。
・自分たちのコミュニティや環境への参画や自治が大切にされている。
・建設的に対話したり、コンフリクトに向き合うスキルや態度を学べる。
・例えば、オランダのピースフルスクールとか、イエナプランとかドンピシャ。(テーマも、学び方やコミュニティもあり方も)
デンマークのフォルケホイスコーレもドンピシャ。フォルケオプリュスニング。
自由の森学園もかなりイメージには近い。
・エンパワメントになる学び。フレイレ的な。
SDGsとかも親和性高い。
・DEAR(開発教育協会)の取り組みなんかもまさに。
・キャリア教育というよりシティズンシップ教育。
・社会適応<社会変革(社会は私たちが変えていける、ということを学べる)

 
この記事は、随時更新していこうかなと思います。コメント、質問歓迎です!

ネタバレ注意|「the Greatest Showman」を観てきたのですが、正直とっても残念でした。

f:id:mido1022:20180305181459j:plain

(画像はここから拝借|http://www.digitalspy.com/movies/news/a845523/the-greatest-showman-hugh-jackman-logan-antidote/
 
あまりハリウッド映画を見ない私ですが、今回はこの動画に感動してしまって、「すっご!やっば!」となってしまって、久しぶりに映画館に足を運びました。
 


グレイテスト・ショーマン主題歌This is me(日本語字幕あり)

 
FBに投稿したところ、K本さんから「この映画興味あるけど、こんな評もあるから迷ってる」とのコメントをもらう。
 

nicjaga.hatenablog.com

 

映画「グレイテスト・ショーマン」感想 人生描写も音楽も、とにかく軽すぎ | THE MAINSTREAM

 
じゃあ一緒に見て感想いい合いましょか!ということで、共通の知り合いのK川さんも誘っての、今日。
 

* *  *

 
全体としては、私は期待してた分、かなり残念でした。
理由は後で書きますが、まずはよかったところから。

・歌とダンスがすっごくいい。特にやっぱり「This is me」は本っ当に名曲。
・フィリップとアンの恋のくだりはよかった。
 (フィリップは最初アンとつないだ手を離すけれど、自分の葛藤と向き合い、
 「世間の目」「親の声」を乗り越えて、アンと向き合う)

ここから、残念ポイント。

・サーカスに集められた「ユニークな人々」の気持ちや、それぞれのストーリーの描写がすごく少ない。あくまで、主人公・バーナムの物語の脇役なんだなぁ。彼の盛り立て役でしかない感じ。もっとスポット当てて描いて欲しかったなぁ。
・「人種」「見た目」「出自による差別」「婚外子」....とか、マイノリティの問題を散りばめるわりに、全然深めない。回収しない。じゃあ何で出してきたのそれ、と思ってしまう。
・「This is me」も、めっちゃいい曲だし素敵なシーンだし、メッセージも申し分ないのだけど、え、上流社会の社交の場から締め出されて帰って来て歌ってるんだったの!?というショック。しかも締め出したのバーナムやん。いや、そこは「make no apologies」なんだから、そこに突入して踊ってほしかった。そして、言葉の刃で傷つけたのも、バーナムかよ。その場で突入はリアリティから言っても無理だとしても、彼女らの怒りは、映画を通してバーナムに一度もぶつけられることはない。そこはかなりもやっと。
・火事とスキャンダルで全て失ったバーナムに、サーカスのみんな優しすぎない?社交場から締め出した後、ろくに小屋にも来ずに来てもみんなに声もかけずにいたやつやで?サーカスが家族だって言ったって、そこにバーナム要るか?
 
などなど。私としては、もやっとするポイントが多々でした。
 
なんか、実業家のサクセスストーリーなのか、多様な人たちがそのままでいいというメッセージのストーリーなのか、なんなのか。焦点が絞られてない感じがした。
 
調べてみると、実在のバーナムは相当やばい人だったみたいですね。
どちらかというと、結合双生児や黒人や小人症の人たちを集めて見せ物にしてお金を稼いでいた人のようです。そういう実在の人物を主人公にして悪者ではなく描こうと思うと、こういう感じになっちゃったのかなー・・・という気もします。実在の人物にインスピレーションは得たけど、ストーリーは完全フィクションです、みたいにしてつくったらまた違ったのかなぁ・・・。バーナムをもっといいやつにするとかさー。
いや、でも、やっぱあれだな。バーナムも含めていろんな登場人物の葛藤の描写が少ないことがこの映画を薄っぺらくさせているなとは思った。
「上流社会の人たちにもウケるものをつくって見返したいけど、ユニークな彼らと新しい価値を創造したい」とか「自分に誇りを持ちたいけれど、見られるのが怖い。拍手されていても実際どう思われているんだろう。」とか。
  
「This is me」という曲がめっちゃ好きなだけに、この曲が使われてたシーンが、文句なしの好きなシーン!と思えなかったことはすごく残念・・・。
  
そんなこんなで、私はこの映画好きー!と言えなかったので悲しかったですが。笑
まだ観てない人は、観てもいいと思います。感想聞かせてね。

その人になって本気で悩む「葛藤のトンネル」の授業(美濃山小学校での授業見学)

f:id:mido1022:20180302095041j:image

 

昨日、長年の同志・キューピーこと藤原由香里さんの働く小学校にお邪魔させてもらった。ここのところ、続けて10年来の仲間の教室や学校にお邪魔する機会に恵まれているのだが、もはや「よく今まで現場を見もせずに、外からできること…とか言ってたな自分」と思うレベルで「その現場の状況理解」が進む。いくら一生懸命イメージしようとしても、話を聞くだけでは全然わかっていなかった。まさに百聞は一見にしかず。いやー、恥ずかしい。

藤原さんの学校は今年から京都府から2年間の研究指定を受け、「演劇的手法を用いた主体的・対話的で深い学び」の実践研究を行なっていて、彼女はそれを中心になって進めている。演劇的手法、表現を通した学びの場づくりにおいてはすでに日本の第一人者と言ってもいいと思う。

2月には公開授業・研究発表会があり、私は行けなかったのだが(ほんっとーーに残念!)私の知り合いも多くの方が参加され、授業はもとより校内研究とその発表会の進め方に対しても「すごい」「面白い」という反応がFB上で飛び交っていた。そして、やっと行けた昨日だったわけだ。

授業や学校をライフワークとして撮り続けているカメラマンの平井さんと共に訪問。
給食を食べ、5時間に6年生の授業を見学。6時間目〜放課後にかけ、子どもたちと先生のインタビューという流れ。

授業は、道徳。ココロ部というNHKの番組(アンジャッシュがやってるやつ)に出てくるストーリーを素材にして、「葛藤のトンネル」というスタイルで行う。教室にいた子どもたちは高学年特有の重い感じがあまりしない、素直なかわいい6年生だった。机はコの字(?)で真ん中が通れるようになっている。担任のSさんがT1、藤原さんがT2で授業が始まる。

f:id:mido1022:20180302145828j:plain

ストーリーはこんな感じ。

美術館の警備員のコジマくん。ある絵の展覧会の最終日。閉館時刻を過ぎてやってきたおばあちゃんと娘のお客さんの入館をルール断るが、実はおばあちゃんにその絵は死んだ夫との思い出の絵だった。入院しているおばあちゃんはなんとか外出届けを今日もらってやってきた。残りの寿命は短く、おそらくこれが最後の外出になる。本当は間に合うはずだったけれど、電車が止まってこの時間になってしまった。コジマくん、入れてあげたいが、ルールを守らないとクビになるかも。しかもさっき同様に閉館時刻を過ぎてから来たカップルは断ったし…。さあ、おばあちゃんを入れてあげる?入れないで断る?

子どもたちは、自分の意見を考えつつ、「入れてあげたほうがいい」「いや、入れるべきではない」の2つの立場でワークシートの吹き出しに言葉を書き込む。葛藤のトンネルは、2列に並んで「トンネル」をつくり、順々に「両方の立場からのアドバイス」をしてくるその間を、本人(役)の子どもがアドバイスを聴きながら通り抜け、最後にどちらかを選ぶ、というもの。

グループでそれを共有し、並ぶ順番を決め、それぞれが言う言葉(アドバイス)を決める。コジマくん役の子が、小道具として担任のS先生がつくった警備員の帽子をかぶり、トンネルの前に立つ。現時点での自分の考えを話し、そして、クラスメイトのいろんな声(意見)を聞きながら少しずつトンネルを歩いていく。

「おばあちゃんにとってはラストチャンスなんだよ」
「おばあちゃんだけ入れてあげるのはえこひいきになるよ」
「クビになってもいいの?」
「入れてあげないときっと後悔するよ」

最後に黒板の2つの扉(おばあちゃんを入れる扉・入れない扉)の前で止まり、どちらかを選ぶ。そしてまたなぜそちらを選んだのか、今の気持ち・考えを語る。

これがすごくおもしろかった。扉の前で真剣に悩む。「どうしよう〜〜〜・・・・」という葛藤が表情に思いっきり出る。番組を見たり、読み物教材を読んで、考えを書いたり、グループで話すだけよりも、こういう場をつくって役になって感情移入して考えることで、グッと本気になる。
6チームあって、2チームずつ3回やったのだが、2回目は新人警備員の藤原さん(という設定で先生)が「先輩にルールルールって言われるんですけど、なんで守らないといけないんですか?ルールをどう考えたらいいのかを踏まえてアドバイスしてもらえますか?」とオーダーが。さらに、3回目は、「普段みんなも学校でルールがある中で過ごしていると思うけど、できたら自分の普段の経験・生活と結びつけてアドバイスしてみて」というオーダーが追加された。

「ルールは守るためにあるんじゃなくて、守れる(いい)ルールにしたほうがいいから、入れてあげたほうがいい」
「平等じゃないのはやっぱりよくないよ」
「みんなが幸せになれるためにルールはあるし、おばあちゃんが幸せになれるほう(入れてあげる)がいいと思う」
「日本はルールを守って人に迷惑かけないことを大事にしてるから一人のために崩すのはよくないんじゃない?」

アドバイスに説得力があった時には拍手が起きたり、どちらかを選んだ時に「おおお〜!」「そっちかあ!」と声があがったり。警備員役の子も、トンネルをつくってアドバイスをする子も、周囲で見ている子も、頭も心もフルに使いながら考えている様子を、私もどきどきしながら見させてもらった。

子どもたちの反応を1つ1つ受け止めながら進められる担任の先生のファシリテーション。息の合った、丁寧に打ち合わせをして流れを考えたことが伺えるチームティーチング。とても素敵だと思った。具体的に2つの扉が目の前に見えていてどちらかの扉に触れる、というセッティングや、帽子を用意している点など細部の工夫も生きていた。これらがあるのとないのとでは全然違った活動になることが容易に想像できる。教室の空間の使い方も見事だなあとつくづく感心してしまった。

* * *

「葛藤のトンネル」は、「善悪の回廊」という手法のアレンジとして美濃山小学校で開発されたもの。このように道徳で使う他にも、クラスのみんなの「お悩み相談」として、AorBで揺れている悩みをみんなでボックスに入れ、トンネルのかたちにしてアドバイスをもらう・・・という特別活動的な使い方や、国語の教科書の文学作品「海の命」の読みを深める(主人公・太一は父の仇である大きなクエと海の中で対峙するも銛を打つことをやめるのだが、その心情を、太一の自問の形式で葛藤のトンネルを活用して考える)のに使ったり・・・というふうに、活かし方のバリエーションがあるらしい。

とっても印象的だったのは、インタビューをさせてくれた6年生のうちの一人が、「海の命」の演劇的手法を使った授業の中で、なぜクエの目の色が変わったのか・・・というような対話をする中でその友達との関係が変わった、もっとその子のことが好きになった、と言っていたこと。私は、一つのことについて友達と一緒に考えて、その視点の違いにおどろいたり、おもしろい!と感動したり、一緒に新しいことに気づいて、一緒に考えて学びが豊かになった経験は正直大学に入って初めてしたように思う。なので、それってすっごいなぁ・・・と感動してしまった。

ディベートと比べて、勝ち負けという感じになりにくいことや、論理だけではなく感情も扱えること、また個人的なテーマにも社会的なテーマでもやれること。広がりうる、面白い取り組みだと感じた。ぜひ自分でも使ってみたいし、いろんな教室でやってみてほしい。

校則変えちゃう?!キャンペーン(仮)、始めます。

f:id:mido1022:20180126173713j:plain

2017年秋、大阪府立高校で、地毛の髪色が明るい生徒が染髪をさせられ、不登校になったと、高校生が損害賠償訴訟に踏み切ったことが話題になった。

▼新聞記事はこちら(毎日新聞|2017/10/27)
https://mainichi.jp/articles/20171027/k00/00e/040/327000c

学校側は生徒の入学後、1、2週間ごとに黒染めを指導し、2年の2学期からは4日ごとに指導。度重なる染色で生徒の頭皮はかぶれ、髪はぼろぼろになった。教諭から「母子家庭だから茶髪にしているのか」と中傷されたり、指導の際に過呼吸で倒れ、救急車で運ばれたりしたこともあった。文化祭や修学旅行には茶髪を理由に参加させてもらえなかった。 

一言でいって、ありえないと感じた。強い怒りを感じた。
理不尽・不合理としか思えないルール。そこから外れることによる迫害。
(迫害という言葉は強いけれど、そうとしか私には表現できない)

そして同時に、そもそも校則って一体なんなんだ?という根本的な疑問が湧き上がってきた。髪はどうして黒くてまっすぐでないといけないのか。
 荻上チキさんたちがTwitterで調べたところ、スカート丈指定、ポニーテール禁止、日焼け止め禁止、下着は白、なんていうものまである。
なぜ、「なにそれ」「時代遅れ」「どうでもよくない?」「人権侵害じゃない?」と世の中の多くの人が思うようなルールが、21世紀になっても学校ではまかり通っているのか。
なぜ、「変な校則」「不思議なルール」と思っている生徒(のみならず先生!)がたくさんいるのに、変わらないのか。
  
ああ、これって、日本社会そのものだ。そう思った。

「社会がこうだから仕方ない、こうするしかない。」
そうやって、「おかしな日本」が再生産されている。
改めてこの校則の問題は日本の学校教育のさまざまな「しんどさ」、日本社会の残念な部分を象徴している問題だなと実感している。
 
社会がこうなってるから、そこでやっていけるように指導する。 
今の社会の中で子どもが損しないように、「火の粉が降りかかってこないように適応しなさい」と助言する。
  
善意だし、「それが生徒のため」だと考える。その気持ちはすごく分かるけれど、その社会はそれでいいのか?ということをこそ、考える必要があると思う。もしよくないと思うなら、やっぱり「そこに適応させる」ということには抗いたいと私は思う。

学校は、民主主義を学べる場所であってほしい。そうしていきたい。
まずは、生徒が変えたいことは変えていける、必要なルールは新しくつくることもできる、と思えるような体験を学校でもっと踏めるようにしたい。

__________________________________________________________

ブラック校則に関しては、すでに荻上さんたちやキッズドアの渡辺さんたちが、Change.orgでの署名を集めるなどのアクションをスタートしている。

www.change.org


私も賛同させてもらっているこのキャンペーンは、いったんのゴールが文科省からのコメントを引き出すということになっている。

それもとても大事だと思うのだけれど、私としては、もうちょっと現場に近いところで、実際の当事者である中高生たちや、現場で葛藤を抱えている先生たちと一緒に、具体的に1校ずつ、学校内での動きをつくっていくことに伴走できないかと考えている。

そこで。『校則変えようキャンペーン(ネーミングはまたちゃんと考えますが)』をやりたいと思っています。いろいろ戦略を考えてから発信しようかとも思いましたが、やってみなきゃわからないことも多いので、まずは「この指とまれ」の指を立てることはしようと思って、記事を書きました。現時点では、まだ問題を掘り下げきれていないし、方策も荒削りですが、もう少し丁寧に、少なくとも数年かけて、じっくりこの問題に向き合い、具体的に動いていきたいと思っています。

というわけで!

《以下のような人とつながりたいです》
☑︎校則に違和感があったり、校則によって困っている中高生。
☑︎そういう生徒をサポートしたいと思っている先生。
☑︎民主的な学校づくりの観点から校則や生徒指導のあり方の見直しを図りたいと思っている先生。

《こんな動きをつくりたいと思っています》
☑︎学校単位での具体的なアクション
 (アンケートやワークショップの実施・職員熟議の開催など)
 ※ここは学校の実情を丁寧に掴んだうえでしっかり作戦を考えてやりたいです。
☑︎学校を超えた情報交換のプラットフォームづくり
☑︎メディアも使った、社会・世論に対しての発信
 
年度が明けて落ち着く頃に、オープンフォーラムとかもやれたらいいかなあ。。
相談・提案・うちの学校でやりたい!など、反応もらえたら嬉しいです。
コンタクトはこちらから。→midori*dem0.work(*を@に変えてご連絡ください)

デモクラシーには時間が必要。教職員・学校の多忙化は、民主的な学校づくりを阻む。

f:id:mido1022:19800101000508j:plain


デモクラシーには時間がかかる。
考える時間、信頼関係を構築するためのコミュニケーションの時間、話し合う時間、試行錯誤する時間・・・
 

本当は、こどもたちにゆっくり考えさせてあげたい。納得いくまで話し合うことが大事だ、と思っている先生は多い。そのためにもしっかり子どもを観察して、丁寧に関わりたいと願っている。子どもたちがやりたい!とモチベーションを持ったことをやらせてあげたいとも思っている。
 
だけど先生たちは忙しい。
「教科の学習を、今週中にここまで進めなければならない」
「来週テストがあるから、その対策をさせなければ」
「提出物のチェックをして、忘れ物チェックも・・・」
「分掌の仕事を、次の会議までに終わらせておかねば・・・」

部活もあるし、生徒指導案件も発生するし、保護者に連絡したり相談に乗ったりしていたら、定時までに授業準備はだいたいできない。
家庭の時間・プライベートを犠牲にして、仕事に忙殺されている。
  
学校で忙しいのは、なにも先生だけではない。実は子ども・生徒たちも忙しい。
「教科の学習を、今週中にここまで進めなければならない」→子ども・生徒たちはそれについていかなければならない。
「来週テストがあるから、その対策をさせなければ」→するのは子ども・生徒たち。

Todoがたくさんあって、こなすことが目的化する。目的がわからないまま追われる。
先生にとっても、子どもにとっても、そんなことが起こっている。
そんな中では子どもたちの「やりたい!」や「わからない」や「納得いかない・・・」という、民主的な学びの場においては尊重されるべき声は、スルーされたり、時には高圧的に黙らされたりして、かき消されてしまう。

じっくり考える時間、信頼関係を構築するために関わり合う時間、話し合う時間、試行錯誤する時間・・・実はあまりないし、あったとしても優先順位が低い。
 
今、働き方改革の大きな流れの中で、学校の先生たちの多忙化問題がクローズアップされてきている。いいことだし、とても大事なことだと思う。
この問題は、大きなシステムの問題であるし、学校独自での意思決定の問題でもあるし、教職員のカルチャーの問題でもあるし、個人の工夫(業務効率化)でマシになる部分もある程度あるだろうと思う。それを進めるためのお手伝いは積極的にしていきたい。

同時に、子ども主体の学びを可能にするためには、時間割はもっとフレキシブルである必要があるし、これまでやっていきたことをやめる必要もあるだろう。
今、主体的・対話的で深い学びを進めるという方向性の中で、「カリキュラムマネジメント」の必要性が言われているが、カリキュラムが、より柔軟なものになっていく方向性に進んでいくことを強く願う。逆に働く可能性もあると思うので・・・。
これも、増え続ける「教育内容」「行事」「慣例」をなくしていく方向の改革を、後押ししていきたい。(新しいものが入るのは悪いことではないけれど、今まで増えたものを見直さずにどんどん増えるのは本当に非生産的だと思う)
 
今更ながら「ゆとり教育」って、今までバッシングされやすいしネーミングミスだとずっと思ってきたけど、一周回っていい名前な気がしてくるなぁ。