人権教育に熱心な先生にさえ、あまり知られていない「こどもの権利」の話

民主的な教育・学び場に絶対必要なこととして、「子ども(学習者)が個人として尊重される」というのがあると思う。
日本はもう25年以上も前にこどもの権利条約を批准しているけれど、おどろくほど浸透していないなと感じる。特に、学齢期以降において。

 

子どもの権利条約には4つの柱がある。
生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利。

 

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子どもの権利条約 特設サイト | 日本ユニセフ協会

条文を読んだことがない人は、この機会に、ぜひ読んでみてください。
(子どもでも読める抄訳もある)

 

子どもを、すべて大人と同じように扱うべきだ、と言いたいのではない。
むしろ、子どもの、子どもとしての大人とは違う独自の在りよう・発達の過程にあることを無視してはいけないと思う。
でも、子どもは大人の付属品ではなく、尊重されるべき個人である、ということはしばしば忘れられる。
というか、そもそも、子どもは「尊重されるべき個人」ではないと私たち大人は思っているのかもしれない。

 

大人には絶対しないはずの「人権侵害」が、子どもに対しては、まだまだ横行している。
例えば、大声で叱責する、暴力をちらつかせて脅かす、意見を無視する・価値がないと決めつけて聞かない、といったこと。

 

大人は、子どもにとって圧倒的に権力者だ。
だから、権力を持っている強者としての大人は、それを自覚する必要があるし、乱用してはいけない。
しかし、現実はそうなっていない。今日もどこかの家庭で、教室で、自己肯定感を傷つけられている。
私たちはみんな昔は子どもだった(大人という強者の前で弱い立場だった)のに、大人になるとそれを忘れてしまう。

 

学校でも、家庭でも、地域でも、子どもの最善のために環境を整えることが当たり前だというふうには、あまり思われていない。
システムに合わせさせること、世間(大人の)に後ろ指さされないことの方が、至上命題だ。

 

組体操で、半ズボンで土や小石が膝にめり込み、「痛っ!」と声が出たり、立ち上がったりした子たちを、「じっとしろ!声を出すな!」と叱責する。
そんな場面に何度も遭遇したことがある。子どもたちに達成感を持たせてあげたい、と思っているのかもしれない。でもそれは本当に子どもたちがそうしたいと表明したのか。
(する場合もあるのは知っています。ちなみに私はどちらかというとそういう子だった。でもすべての子がそうではないはず。)
地域や保護者に、立派な組体操を見せねば・・・といった、大人のための理屈が先行していないか。

 

多動傾向の子のことを「あの子授業中座ってられなくて・・・」という。けれど、その子が座っていなければならない理由とは何なのか考えてみてもいいのではないか。
「ごめんやけど、管理の都合上座っててほしいねん。協力してくれへん?」ぐらい言ってもいいと個人的には思う。


北海道の中学校で教えていた石川晋さんは、「合理的立ち歩き」というのを提唱している。そういうセンスがもっと広がればいいなと思う。

▼インタビュー記事
https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20120288


ちなみに生徒が授業中にやたら手紙を回すから「合法的手紙回し」というのもやっていたらしい。手紙回しは、合法的になったら楽しみが半減する気もするが。笑



最近、福岡でセクシュアルマイノリティのこどもたちの相談にのる活動している元教員の友人と話をしていた時に

制服のこととか、トイレのこととか、当事者の子達が困ってることをどうにかするために学校と話をしに行くけど、そもそもセクマイかどうかとかじゃなくて、一人ひとりの子どもが大事にされない学校文化の中で、この子セクマイだから配慮してくださいみたいことになってて、時々虚しくなる。

というようなことを言っていて、そうだなあと思った。

 

つまり、「セクマイなので特別に配慮してください」という、セクマイの人権の話としては、聞いてもらえて対応してくれる学校もあるけれど、すべての子どもたちの学びやすさ・過ごしやすさを保障しよう、という視点が前提にはなっていない。セクマイの人権の話の方が、子どもの人権の話より、受け入れやすいんだろうね、という話。

その友人は年間180本の講演に行っているが、先日とある学校で、休憩時間に入るときに「今、年生は授業中なので、(それとは別の)~~校舎のトイレを使ったらどうですか?」という先生のマイクでの指示(提案)を聞いて、感激したのだという。そんな指示は、今までどの学校でも聞いたことがなかったのだそうだ。

 

「特定の被差別少数者への配慮」という意識のもとでは、学校文化は問い直されなくて済む。でも、それって、本当にインクルーシブなのだろうか?
多様な子どもたち・学習者が、学びやすい・過ごしやすいかたちに枠組み自体を問い直していくことが、インクルーシブ教育なのだと、LITALICOの野口晃菜ちゃんは言っていて、私はそれにとても共感している。

 

大学生頃、自分が受けて大きな影響を受けていた人権教育について調べたり本を読んだりしている中で、「人権教育の4側面」というものを知った。

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そして、「人権を通しての教育(Education through Human rights)が、今の日本の学校文化とマッチしにくいところだと感じた。
「主体としての子ども」という価値観を中心におくオルタナティブ教育は、その点、人権を通しての教育に非常に親和的だ。

だいぶ長くなってしまったので今日はこれぐらいで。
ちなみに、子どもの権利を考える場としては、1/28に「関西子どもの権利条約フォーラム2017」というイベントがあるので、興味を持った方は来ていただけたら嬉しいです。
私も1つの分科会でファシリテーターをやります。詳細はリンクから!

kodomonokenrikansai.wixsite.com

デモクラシーに根ざした、デモクラシーのための学校教育をつくろう。

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デモクラシーに根ざした学びの場とはどんなふうなのか。
何が、民主的であるか否かを分けているのか。
そんなことを、ここのところ考えている。

日本ではデモクラシーは「民主主義」と訳され、政治の形態のことであるようなイメージがあるかもしれない。私は、もっと広く捉えている。
 
ヨーロッパや北欧の国々(特にデンマーク!)では、日常の暮らしの中で、また学校などの学び場や福祉、コミュニティワークの現場で、当然のように「デモクラシー」という言葉が聞こえてくる。
 
私は、デンマークフィンランドを複数回訪ねて、あの人たちにとってデモクラシーとは、「私はどうありたい/生きたいか」に関係することなのだな、という理解に至った。
私は何が好きで、何が嫌で、何を欲していて、どうであれば幸せなのか。それは誰もが尊重されるべきだということ。そして、その上で「私とは異なる他者と、どう共に生きるか」を探究すること。それがもっと広がった時に、「多様な個人が共に生きられるコミュニティとは、社会とはどんなものなのか」。私が出会った、あの人たちにとっては、すべてが地続きで直結しているようだった。

f:id:mido1022:20150324115342j:plain)) 障害を持つ青少年のためのユーススクールの校長先生。「障害がある彼らにも、他の人たちと同じように若者時代を謳歌する権利があります。私たちの仕事は、それをサポートすること。」という言葉が印象に残っている。

 

f:id:mido1022:20170301180857j:plain)) 森のようちえん。ここの子どもたちは大人のような意思のはっきりした顔をしていた。自分の「こうありたい!」を全身全霊で生きていると感じた。


ひるがえって日本では、まず一歩目である「私はどうありたいか/生きたいか」「どうであれば幸せか」ということ、まず個人が尊重されて然るべきである、というところに社会的合意がないように感じる。多様な個人が尊重されるシステムを構築するために知恵を絞ろう、という風ではなく、既存のシステムが個人よりも尊重される。結果、成長する過程の中で"自分"が損なわれていく。基盤になる"自分"がグラグラするから、むしろ他者や社会を信頼することがむずかしい。そんなことがたくさん起こっているのではないか。だとしたら、それは個人にとっても社会にとっても、とても不幸だ。


私は、デモクラシーに根ざした、デモクラシーのための学校教育を、それを願う人たちと一緒につくっていきたい。それは、こんなことを重視する学びの場。

  • Well Being - 今ここと将来が幸せであること -
  • Respective Relationship - 尊重し合う関係性 -
  • Participation - 子ども・学習者の参加・参画 -

また、それは、子どもの権利条約や、学習権宣言のスピリットの具現化とも言えるものだと思っている。

www.unicef.or.jp

 

学習権とは、
読み書きの権利であり、 問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。


学習権宣言は、何回読んでもシビれます。。

当事者である子どもたち・若者たちや、既存のシステムの中で、葛藤しながら課題に向き合っている先生や教職員の人たちと、この方向を目指したい。

しかも、理念だけでなく、制約がある今の現場で、具体的にやれることを提案し、そのためのリソースやツールを開発していきたい。
 
全国の同志とつながりたいと思っています。ぜひ一緒にやりませんか?
これから、ブログでもその具体的な中身を、考えてはアウトプットしていきたいと思います。

ブログ再開。2018年・32歳の自分のこと。

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年が明けて、だいぶ経ってしまったので、あけましておめでとう、と言う感じでもないかもですが、明けましておめでとうございます。
ブログふっかーつ!しかもwordpressからはてなに戻してみた。

さっそく本題から。

少し前から、場づくりやキッカケづくりだけでは飽き足らなくなってきている。
ここのところずっと、自分が関わった、先生たちや子どもや教育に関わる人たちの現場に、具体的な変化が起きているという実感が持てないことにモヤモヤしていた。
例えば、ケアはとても大切なことだとは思うけれど、ケアは私にとっては目的ではない。関わった人の先に、インパクトが、影響が、広がっていく仕事を私はしたい。
 
加えて、32歳になり、体力も20代の時とは違う。同じエネルギーで走ったらダメだろうという感覚がある。プライベートも大事にしたいし、子どもも育てられるものなら育てたい。

そんなわけで、今喫緊の課題は、効果的で効率的にインパクトを発揮するために戦略的に動くこと。少ないエネルギーで、大きな成果を出したい、ということ。
そのためにも自分のミッションを明確にし、そこに集中すること、だと思う。

「みんなが幸せな、デモクラティックな学びが、日本中の学校に広がる」。

当面そのために動こうと思います。現場の人に伴走しながら、社会に向けて発信する。
教育についてはもちろん、外にいる者だからできることの、専門性も高めていく。

多動っ気があって、根がぐうたらな自分だけど、社会に対する怒りや、「こんなんいやじゃー!」という思いが私を突き動かしていて、それはなかなか消えないし、プライベートをそのために投げうったりもしたくないので、やるしかないなと思う。

とりあえず、年明けて仕事が始まってからは6:00に起きて、朝のルーティンと勉強をこなすということを始めています。時間を有効に使う習慣づくりから、がんばろう。

▼最後に今年の目標!
TOEIC 800点!
校則を変えるキャンペーンをし、実際に複数の学校で校則が変わることに関わる。
・デモクラティックな学びを普及するための具体的なリソースやツールを3つ以上開発する。
・ブログを定期更新し、1000人以上の人に読んでもらえるようにする。
・自分の専門性に関わる本を月3冊は読む。

 

多様な教育に出会うことの3つの意味

実は今年で、活動を始めて10年目を迎えているコアプラス
一番初めは、私と現・理事のりんりんこと神野有希が当時全盛期だったmixiで出会い、意気投合したことから始まった。

初めにつけた活動名は「学校見学プロジェクト」(笑)
その後、「教育の多様性体感プロジェクトCORE」となり、「CORE+」となり、現在の「一般社団法人アプラス」という変遷を辿った。

特に、「教育の多様性体感プロジェクト」というふうに名乗っていた時期は長く、現在のフィールドスタディ事業に当たる教育現場を実際に訪問する国内スタディツアーが、もっとも長い事業になる。そしてその次が多様な教育の博覧会・エデュコレ

つまり、コアプラスは10年前から、多様な教育に出会うことに意味を見出し、それを提案する事業を続けてきたと言える。団体としての重要なアイデンティティがそこにはあると思っている。


教育現場に身を置く人や、教育を志す人は、絶対に多様な教育を見るべきだと私は思う。
ここでいう「多様な教育」というのは、いわゆるオルタナティブ教育だけを指しているわけではない。様々な人や団体が、それぞれの理念・形態・スタイルで、思い思いの「学び育ちの場づくり」に挑戦している。そういうものに出会ってほしいという意味だ。

なぜなら、多様な教育との出会いによって以下のようなことが起こるから。

1. 無意識に持っている「固定観念」や「諦め」が自覚される

教育というのは、誰もが「受け手」としての経験を持っていて、だからこそみんなが自分の 経験をもとにした「これがアタリマエ、ふつう」という価値観を持っている。
多様な教育に触れることで、教育って、学校って、授業って、「こういうもんだ」というイメージが崩れる。それは教育者として選択肢が広がる、ということでもある。
また、自分にとって「ふつう」の枠外の実践を知ると、「これは、公立校では無理だ」「特別なこの人だからできたんだ」という反応も起こりやすい。これは、その人にとって「普段何がハードルに感じられているのか、何を諦めて過ごしているのか」ということと裏表だ。それを見つめることはもちろんしんどいけれど、「諦めている自分」を自覚することは、次につながる一歩になると思う。

2. 自分が「教育観」が、比較によってクリアになる

多様な教育に出会うと、自分がいろんな反応をする。違和感を抱いたり、共感したり。
自分が「よい・素敵・ワクワク!」となる教育のカタチはどういうもので、自分が「いやだ・違う・モヤモヤ」となる教育のカタチはどういうものなのか。こだわりたいことは、大切にしたいことは何なのか。
まなびの現場をつくる人にとって、その軸を明確に持つことはとても重要。エデュコレなんかは特に、多種多様な教育のカタチに”一度にたくさん”触れられるので、それを鏡にして、自分の教育観を確認するのには打ってつけだと思う。

3.子ども・学習者の多様性に気づくことができる

学び手は多様である。自分が子どもだった時に、「すごく良かった!」と思う経験が、どの子にとっても「すごく良かった!」かどうかは分からない。学校行事でクラス一丸となって盛り上がったことが最高の思い出だった人もいれば、その中で同調圧力で疲弊していた人もいる。学校を苦しいと感じる子どもたちを受け止めているフリースクールの存在を知ったり、発達障害の子どもたちに合わせた環境づくりをしている塾の取り組みを知ったり、一人ひとりのニーズに個別に対応しようとしている先生に出会ったりすると、自分の目の前にいる子どもたちの多様性が見えやすくなる。


重要なことは、ここに書いたようなことは、自分とは異なる他者と視点を共有し、自分の着目点や感情の動きを大切にしながら一緒に振り返りをすることで、促進されるのだということ。また、その場限りではなく、日常に戻ってからも、継続的に学び合える仲間や、コミュニティ、サポートが受けられるということも、実際に現場の現実が変わって行くためには、大きな要素だと思う。

だから、一人で視察に行くより、コアプラスのフィールドスタディに参加したほうがいいし、一つだけを紹介する講演会に行くのもいいけど、エデュコレに参加したほうがもっといい。笑)
いや、本当にそう思っています。

さあ、明日はどんな1日になるかな。

9月1日を前に声を大にして言いたい。「学校なんかよりも命が大事」

今日は、数ヶ月前までお子さんがホームスクーリングをしていたという方とお話しする機会があった。

1時間ほどのお話の中で、「学校が絶対視され過ぎていますよね」ということが話題に上がった。学校に行っていない子が地域を”ちょろちょろ”していると、非常に肩身が狭いのが今の日本の状況だ。それによって、不登校というただ「学校に行かない」という行為が、スティグマになったり、自己否定感になったりする。さらには、外に出られないことが、引きこもり状態を招いていく。
(引きこもる理由はもちろんそれぞれだが、不登校から引きこもりになる場合、これは主要な要因の1つだと思う)

本当は、もっと地域の中、社会の中に学びがあって、学校はあくまで地域の中、社会の中の1つの箱であるはずなのだ。


みなさんは、2日後に迫る9月1日が、子どもの自殺がとりわけ多い日であるということをご存知だろうか。この日だけではなく、夏休み明けのタイミングでの自殺件数は、明らかに多い。また、実は4月の新学期が始まる前にも同様にグラフが跳ね上がっている。

「学校に行く」ということが、こんなにも子どものストレスになっているということに愕然とする。学校が楽しかった人には、想像しづらい現実なのかもしれないけれど。
(かくいう私も学校は楽しかったというか、超適応してやって来た人間です)

 

先日未来の先生展の中での「多様性を受けとめる学校づくり」のトークセッションに登壇してくれた石井志昴くんの記事がYahooニュースにアップされていた。
彼が編集長を務める不登校新聞は、早くからこの問題に気づき、警鐘を鳴らして来た。

その彼が、こんな記事を書いている。

▼9月1日前後の72時間が子どもの自殺のピーク。 SOSの「受け取り方」に変化を。
https://news.yahoo.co.jp/byline/ishiishiko/20170830-00074378/

40歳未満の者が自殺に追い込まれやすい時間帯は午前0時台にピークになることもわかっている。つまり、本日(8月30日)の深夜0時から72時間が年間を通して子ども自殺のピークだと言える。

しっかり受けとめたい。

志昴くんたちの熱心なキャンペーンのおかげで、夏休み明けに子どもの自殺リスクが高まることが徐々に認識され、夏季の教員研修でも、自殺予防研修が設けられる自治体も出てきているようだ。

学校の先生たちには、いつも以上に、子どもの気持ちに寄り添った関わりが求められているけれど、もちろん先生たちだけでは足りなくて、保護者も、親戚のおっちゃんおばちゃんも、おじいちゃんおばあちゃんも、PTAの人も、地域を歩く道ゆく人も、子どもたちを「指導」したり責めたり嗜めたりするのではなく、気持ちを聞いて受けとめることが大切なのではないだろうか。「責めてくる大人」「追い詰めてくる社会」ではなく、「聴いてくれる」「受けとめてくれる大人」でありたいと思う。

私のFacebookフィードでは、ここのところ、フリースクールや地域の関係者の皆さんが、「フリースクールあけてるから来てね」「子どもの声を聞こう」といった発信をされているのが流れて来る。

その中にあった1つの言葉が、印象的だった。

「学校はすべてではない。いのちは、すべてです。」

本当にそうだと思う。

「死ぬぐらいなら、学校なんか休んでいい。」
「むしろ、休むべき、休まなきゃいけない。」

言いづらいかもしれないけど、学校の先生も、そう言っていい。親もそう言って大丈夫。
地域の人も、「無責任かな」なんて思わずに、よその子にだってみんなで言おう。

だって、いのちはすべてですよ。絶っ対に、学校より重いでしょう?

さあ、明日はどんな1日になるかな。

多様性を受けとめる学校づくりを。

今日は「未来の先生展にて、多様性を受けとめる学校づくり、と題してトークセッションをする。メンバーはいつもの仲間、恩田夏絵と室井舞花に加え、不登校新聞社の石井志昴くん、特別ベストとして前川前文科省事務次官も登壇する。

このテーマは、私がコアプラスの活動を通じて、どうにかしていきたいことの一番中心にある。先日、自分が教育現場に起こしたい変化を、「教室・学びの場」「学校・教育団体」「地域」「社会」というふうにエリア分けして整理し、結構スッキリしたのだが、その中で「教室」は、こうなって欲しいと書いた。

強いられる学びではなく、楽しい学びがある。
子どものウェルビーイングを促進する場である。(教育マルトリートメント)
1人ひとりのユニークさが祝福され、違いによって自分が損なわれない。
自分とは違う他者と、豊かに出会い、共に生きることを学ぶ場になっている。

日本中、そんな教室ばかりになればいいと切に願う。


「みんな違ってみんないい」という言葉を、標語のように学校でよく聞く。けれど、それを体現している教室は少ない。また、もちろんそれをつくるのは本当に大変なことだと思う。
現場で葛藤しながら、「みんな違ってみんないい教室」をつくろうという思いを手放さずに試行錯誤を続けている先生たちはすごいのだ。心底尊敬する。

多様性が受けとめられる教室づくりにはいくつかの条件があると思う。
以下で、必要十分条件だとは思わないが、必要条件だと思うことを書いてみる。

今後もっとブラッシュアップしていきたい。

●先生が、言葉を繊細に扱い、言葉に敏感であること。
特にマイノリティ性を持つ子どもたちにとって、先生が自分を理解してくれそうかというのは、しゃべっていたら分かる。
私は、よく教員研修で教室を飛び交っているような「言葉」をカードにしたものを用意し、それをディスカッションしながら「問題ない=青」「要注意・要配慮=黄」「問題あり・NG=赤」の信号カラーで分類するというワークしている。カードは「先生の言葉」と「子どもの言葉」で白と灰色で色分けしてある。例えばこういうものだ。

<先生の言葉>
・このプリントお母さんに渡してね。
・じゃあまず女子はこっちに並んで〜。
・みんなも、大人になったらちゃんと選挙に行かないとあかんよ。

<子どもの言葉>
・なんでいっつも順番抜かしするの!
・男同士でイチャイチャするなよ(笑)
・(地毛が金髪の子に対し)○○の髪の色、かっこいいよなあ!

黄色と赤に分類されたカードに関しては、なぜそう判断したのかの理由と、自分がその言葉に遭遇した時にどう対応するか・すべきかをそれぞれ考えていく、いったワークだ。

相談やカミングアウトをされる先生と、されない先生はパキッと別れる。相談される先生は、相談を受けることでさらに想像力が増し、配慮ができるようになる。
先生自身が普段いかに配慮ある言葉を使い、不用意な言葉に対して諌めたり注意したり、この言葉をこの子はどう受けとったかな…という想像力を持っていることが、教室の中の「居やすさ」を大きく左右する。先生の、言葉への対応が、同調圧力を強めることも、弱めることもある。

●子どもが自分の意見や気持ちを表現できる環境があること。
先生の想像力には限界がある。だから、今の教室・学校のあり方について、子どもたちと話せると素敵だなと思う。特に、ここが嫌だ、これがしんどいということを聞けるといいなと思う。それが、現状に対する否定や批判であっても、それを聴く姿勢を表現し、それを引き出す機会をつくる。
小さな子どもたちは、言葉で表現できないことも多い。そんな時は、見ることで知ろうとする必要があるかもしれない。場合によっては「問題行動」が、それを教えてくれるかもしれない。

また、かつて子どもだった、「学校が嫌いだった、しんどかった大人」の声から、学校がどう感じられていたかを学ぶこともできるのではないだろうか。

●システム(枠組み)にこどもを合わせるのではなく、こどもにシステムを(できる限り)合わせていくこと。

これが、一番難しいと思う。上記2つは、チームで取り組む方が効果は高いが、とはいえ個人内の努力である程度取り組んでいける。でも、これをやるには学校組織を変えていく必要を伴う。枠組みに合わせられる力をつけることがこの子のためだ、と考える人がまだまだ多い中で、子どもに合わせて、システムを変えていくというのは、戦いだ。覚悟がいる。他の先生と、そして教職員集団の中で、議論や対話を重ねる必要が出てくる。

合理的配慮という言葉が広がり、学校でも義務付けられた。これは、すごく大きなことで重要な流れだと思う。これをもっと広め、武器にしながら、内側からも外側からも学校を変えていけないか。

机の前の椅子に座って、ノートを取りながらずっと聞いている授業がしんどい子と、わいわい喋るグループワークがしんどい子が同じ教室にいる。じゃあどうする?
集団生活がベースの学校の中で、一人になれる空間を必要としている子がいる。じゃあどうする?
修学旅行で男女別に部屋分けがなされるのを辛いと感じる子がいる。じゃあどうする?

一つひとつのことに取り組んでいきたい。
ありがたいことに、すでに先人たちが、多様な授業スタイル、教室レイアウト、個別化の工夫・・・学校組織の中でしなやかに戦いながら、モデルケースをこれまでにもつくってきてくれている。海外の事例からも学べる。


自分自身も、もっと戦略を持って、もっと一つ一つの具体的な事例に向き合いながら、提案性のある発信をしていきたい。
学校の外で、先生ではない立場から、できることを、学校内の人たちとともに考え、つくっていきたい。

長くなってしまった。。
さあ、今日はどんな1日になるかな。

自分を生きることと社会変革の両立は可能か

この間のコアプラスのこと。
もとからそう、といえばそうなのだけれど、コアプラスのメンバーはおおむね自分勝手だ。私自身もそうだけど。納得できないと動けないし、コンディションによって働きにムラがあるし、プライベートが大事だし、ちゃんと暮らしを充実させたい。はらいふができてから、その傾向はさらに強まったと思う。

アプラスでよく出てくる言葉に「自分を生きる」とか「誰もが自分を生きられる社会」というのがある。それを目指す社会変革のプロセスの中で、仕事や活動が肥大化して、生活がおざなりになったり、メンバーが仕事に忙殺されるようなことは、大きな矛盾だ。これはソーシャルセクターで何か活動している人たちや、教育や福祉を仕事にしている人には、まったく珍しくない、よくある矛盾だと思う。でも、うちのメンバーはその矛盾に敏感。「社会変革に邁進して、毎日コンビニ弁当の人とか信用できひん」「社会変革とかいって、家庭で子育てを担ってない活動家なんかクソや」という具合である。

私はというと、けっこうワーカホリックで、社会変革が私の「自分を生きる」の中心軸にある感じ。ダメだと思いつつ、毎日コンビニごはんになってしまうことも珍しくない。比重が社会変革の方に傾きがちである。逆に、「丁寧に暮らすことがすなわち社会を変えること」みたいに言ってる人を見ると、「たとえば節電さえしてたら原発止まるんか?」と苛立ってしまう。

結論からいうと、やっぱどっちも追求しなきゃいけないよね、ということだ。そして、コアプラスは「自分を生きる」に比重が傾きがちで、私は「社会変革」に傾きがち。どっちもセットで追求していけるようにしたい。これって、ワークライフバランスの実現、よりもさらに数段難しいと思う。まずは、その両立に取り組んでいこうよ、ということを、合意するところから。まずは、ミッション、ビジョンの共有、出したいインパクトの質や量のイメージを共有し、みんなでコミットするところから。今それに取り組もうとしているけれど、なかなか抵抗感が大きい。

自分を生きることと社会変革の両立。それを実現しているロールモデルは、実はあまりいない。思い当たる人は数人いるけれど。だからこそ、新しいモデルを打ち立てていきたい。

さあ、明日はどんな一日になるかな。