人権教育に熱心な先生にさえ、あまり知られていない「こどもの権利」の話

民主的な教育・学び場に絶対必要なこととして、「子ども(学習者)が個人として尊重される」というのがあると思う。
日本はもう25年以上も前にこどもの権利条約を批准しているけれど、おどろくほど浸透していないなと感じる。特に、学齢期以降において。

 

子どもの権利条約には4つの柱がある。
生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利。

 

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子どもの権利条約 特設サイト | 日本ユニセフ協会

条文を読んだことがない人は、この機会に、ぜひ読んでみてください。
(子どもでも読める抄訳もある)

 

子どもを、すべて大人と同じように扱うべきだ、と言いたいのではない。
むしろ、子どもの、子どもとしての大人とは違う独自の在りよう・発達の過程にあることを無視してはいけないと思う。
でも、子どもは大人の付属品ではなく、尊重されるべき個人である、ということはしばしば忘れられる。
というか、そもそも、子どもは「尊重されるべき個人」ではないと私たち大人は思っているのかもしれない。

 

大人には絶対しないはずの「人権侵害」が、子どもに対しては、まだまだ横行している。
例えば、大声で叱責する、暴力をちらつかせて脅かす、意見を無視する・価値がないと決めつけて聞かない、といったこと。

 

大人は、子どもにとって圧倒的に権力者だ。
だから、権力を持っている強者としての大人は、それを自覚する必要があるし、乱用してはいけない。
しかし、現実はそうなっていない。今日もどこかの家庭で、教室で、自己肯定感を傷つけられている。
私たちはみんな昔は子どもだった(大人という強者の前で弱い立場だった)のに、大人になるとそれを忘れてしまう。

 

学校でも、家庭でも、地域でも、子どもの最善のために環境を整えることが当たり前だというふうには、あまり思われていない。
システムに合わせさせること、世間(大人の)に後ろ指さされないことの方が、至上命題だ。

 

組体操で、半ズボンで土や小石が膝にめり込み、「痛っ!」と声が出たり、立ち上がったりした子たちを、「じっとしろ!声を出すな!」と叱責する。
そんな場面に何度も遭遇したことがある。子どもたちに達成感を持たせてあげたい、と思っているのかもしれない。でもそれは本当に子どもたちがそうしたいと表明したのか。
(する場合もあるのは知っています。ちなみに私はどちらかというとそういう子だった。でもすべての子がそうではないはず。)
地域や保護者に、立派な組体操を見せねば・・・といった、大人のための理屈が先行していないか。

 

多動傾向の子のことを「あの子授業中座ってられなくて・・・」という。けれど、その子が座っていなければならない理由とは何なのか考えてみてもいいのではないか。
「ごめんやけど、管理の都合上座っててほしいねん。協力してくれへん?」ぐらい言ってもいいと個人的には思う。


北海道の中学校で教えていた石川晋さんは、「合理的立ち歩き」というのを提唱している。そういうセンスがもっと広がればいいなと思う。

▼インタビュー記事
https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20120288


ちなみに生徒が授業中にやたら手紙を回すから「合法的手紙回し」というのもやっていたらしい。手紙回しは、合法的になったら楽しみが半減する気もするが。笑



最近、福岡でセクシュアルマイノリティのこどもたちの相談にのる活動している元教員の友人と話をしていた時に

制服のこととか、トイレのこととか、当事者の子達が困ってることをどうにかするために学校と話をしに行くけど、そもそもセクマイかどうかとかじゃなくて、一人ひとりの子どもが大事にされない学校文化の中で、この子セクマイだから配慮してくださいみたいことになってて、時々虚しくなる。

というようなことを言っていて、そうだなあと思った。

 

つまり、「セクマイなので特別に配慮してください」という、セクマイの人権の話としては、聞いてもらえて対応してくれる学校もあるけれど、すべての子どもたちの学びやすさ・過ごしやすさを保障しよう、という視点が前提にはなっていない。セクマイの人権の話の方が、子どもの人権の話より、受け入れやすいんだろうね、という話。

その友人は年間180本の講演に行っているが、先日とある学校で、休憩時間に入るときに「今、年生は授業中なので、(それとは別の)~~校舎のトイレを使ったらどうですか?」という先生のマイクでの指示(提案)を聞いて、感激したのだという。そんな指示は、今までどの学校でも聞いたことがなかったのだそうだ。

 

「特定の被差別少数者への配慮」という意識のもとでは、学校文化は問い直されなくて済む。でも、それって、本当にインクルーシブなのだろうか?
多様な子どもたち・学習者が、学びやすい・過ごしやすいかたちに枠組み自体を問い直していくことが、インクルーシブ教育なのだと、LITALICOの野口晃菜ちゃんは言っていて、私はそれにとても共感している。

 

大学生頃、自分が受けて大きな影響を受けていた人権教育について調べたり本を読んだりしている中で、「人権教育の4側面」というものを知った。

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そして、「人権を通しての教育(Education through Human rights)が、今の日本の学校文化とマッチしにくいところだと感じた。
「主体としての子ども」という価値観を中心におくオルタナティブ教育は、その点、人権を通しての教育に非常に親和的だ。

だいぶ長くなってしまったので今日はこれぐらいで。
ちなみに、子どもの権利を考える場としては、1/28に「関西子どもの権利条約フォーラム2017」というイベントがあるので、興味を持った方は来ていただけたら嬉しいです。
私も1つの分科会でファシリテーターをやります。詳細はリンクから!

kodomonokenrikansai.wixsite.com