指示の声と、対話の声

声って大事。
音量とトーンと、あと何て言ったらいいんだろう、やわらかみの調節?

大勢の聴衆の興味を引きつけ、聞かせるための声は、大きくて通る太くて高い声。特定の誰かに届けるというよりは、力を入れて広い範囲の人にパーンと放射する感じ。聞く人と話す人がはっきり分かれている時の話し方。「刺激」するための声。ガシッと情報や考えを「注入」するための声。感じ悪くならないためにやわらかみは残して。でも、受信することに開かれていない発信のための声。指示や、プレゼンや講演の声。

もう一つの声は、ごく近くにいる人と話すような大きくない声。力を入れない声。発信しながらも受信に開かれている時の、やわらかいしっとりした声。余白を与える声。相手のことを聴くための声。対話の声。

説明が難しいけど、私たちは普段場面や相手によっていろんな声を使い分けてると思う。
私は指示の声を出すのがわりと得意だ。これは短い期間だったが教員をした時、とても「使えた」。これを濫用するのはよくないかもしれないけど、うまく使えないと結構苦労するので、引き出しに入れておくほうがいいとは思う。
でも、ちょっと世の中指示やプレゼンの声で溢れすぎてるんじゃないかな。学校も会社も、ひょっとすると場合によっては家庭ですら。そんなことないかな。
ほっとするのは、考える余白を与えてくれるのは、対話の声だと思う。それがもっと発せられるほうがいいなと思う。
私は、最近プレゼンや講演の時も、できるだけ対話の声で話すようにしている。

シュタイナー教育が顕著だが、オルタナティブ教育の教師は、ささやくように生徒に話すことが多い。フレネ教育は、もともとフレネが戦争で毒ガスを吸い、大きな声が出せなくなったことに端を発した教育だったりする(だから大きな声でコントロールしなくても子どもたちのが主体的・自主的に活動できる教育スタイルを考えた)。

指示の声と対話の声、どっちか、である必要はなくて、どっちもあっていいし、きっとどっちも要る。でも、私は親和的な対話の声がベースであるほうがいいなと思っている。