多様性という言葉の多様性がややこしいんですよね、という話。
今の時代の頻出ワードのひとつに『多様性』がある。
この言葉、いろんな人が、いろんな意味で、いろんな思いや考えを乗っけて使うので、とってもややこしいなと思う。
かく言う私もよく使うのだけど。
ちょっとこの言葉について書いてみる。自分の中ではよく考えてることで目新しい発見!気づき!とかではないけれど、こういうことって文章で説明するのはちょっとめんどくさくって、今まで書いたことはない。(直接人と話す時はよく話してるけど)
まず、『多様性』の捉え方・イメージの違いの1つに、一つのコミュニティの中に多様な価値観や立場・バックグラウンドの人が混在している状態を「多様性がある=目指す状態」と考える人と、1つ1つのコミュニティの中はある程度同質で、俯瞰して見たらカラフルである、ということを「多様性がある=目指す状態」と考える人がいる。
教育で言えば、例えば学校選択制とかフリースクール法制の話をする時に、推進派も反対派も「多様性の尊重・確保」のために...というようなことを言って、聞いてる人がしばしば「?」となるのはこの違いがあるためだ。
同質性のあるところのほうが、人間の精神状態は安定するし楽ちんだ。しかし、実は、そこには同僚圧力が働いていて、本当は存在している差異が見えなくされているということはよくあることだと思う(マイノリティの不可視化)。「私たち、だいたい同じ色だよねー。赤いやつとかありえないいねー。」というコミュニティは、違う色を持っている人にとっては自分を抑圧せざるをえなくて苦しい。
同質性のあるコミュニティの中で、アイデンティティが安定して初めて、異質なものと関わり合うストレスに耐えうる、ということも確かにあるだろうとも思う。でもなんだかモヤっとした感じが残る。
私は「コミュニティ内多様性重視派」だと思う。コミュニティ内多様性を言っている人にとっては、多様性とは大変でストレスフルなものである。コミュニティ間多様性を言っている人にとっては多様性は安全で快適なものである。
どっちがいいのか、というようなことを数年来考えてきたけど、カラフルコミュニティも、モノカラーコミュニティもどっちも持って、行き来することを意識するのがいいのかな、というのが今の私の結論。ずっとストレスフルなのは嫌だししんどい、でもコミュニティ内でだけ生きていると、いろんな視点を失って、容易に無意識に誰かを抑圧してしまうことになると思う。
そんなわけで、いろんな人と関わることを大事にしたい。
「多様性が大事だよね」っていう人たちに中には、「多様性って大事だよね」という言葉が通じる人たちとしか関わってないよね?という人たちも結構いる。「それってどうなの?楽かもしれないけど、それで多様性が大事って矛盾してないか?」って思ってしまうことが、よくある。まぁあえてそうしてる人もいるし、一概に言えないけど。
私は「多様性って大事だよね」と言われて「...は?」って反応するような人たちと関わり合ってつながっていきたいなーと思う。
もう一つの視点。
「多様性の尊重」という時に、それを"目的"とする考え方と、"条件・手段"とする考え方があると思う。
前者は、人権として、一人ひとりのあり方が尊重されるべき、多様性の尊重はそれ自体がゴールだという人々。
あえて分けて対立的に書いたけれど、この2つは別に矛盾しない。
前者をベースに、後者も目指す、というのが私の考えだし、普段コアプラスのコミュニティ運営でチャレンジしていることでもある。
ただ、前者をすっとばして後者の話をしてる人が経営者とか政治家とかにいる気がして、それは結構怖い。
私は、多様性を語る人が目の前に現れた時、この人は目的としての多様性を語っているのか、手段・条件としての可能性を語っているのか、両方を語っているのか、両方語ってるとしたら、主にどっちに重点があるのか...を注意深く聞くようにしている。ほんとは手段としてしか考えていなくても、目的としても考えてるように語れてしまうから、判断が難しい。その人の言動や判断から、見極めるしかない。
えっと....この人はこっち、あの人はこっち、っていう私の判断のを書こうかと思ったけど、一応やめておきます(笑)
ツラツラと書いてたら長くなってしまったー。
誰か最後まで読んでくれるのだろうか(^^;;
誰か最後まで読んでくれるのだろうか(^^;;
おしまい!