北星余市高校の閉校検討のニュースを受けて。

北星学園余市高等学校を知っていますか?
北海道のワインとウイスキーの町・余市町にある私立高校です。
義家さんの「ヤンキー先生母校へ帰る」のモデルになった学校といえば、「ああ、あの高校か」と分かってもらえるのではないかと思います。

ずっと昔から、全国から、非行や不登校の若者を受け入れ、福祉機関や警察や町の下宿の人々ともネットワークを組みながらサポートし、社会へ送り出してきた、ものすごい学校です。
アプラスも、北海道に訪れた際には見学や先生・生徒さんとの意見交換をさせていただき、夜も先生たちと飲み...とてもお世話になっています。

その北星余市高校について、今日、こんな報道がありました。

 

headlines.yahoo.co.jp

一部抜粋

北海道余市町の北星学園余市高(安河内敏校長、161人)を運営する学校法人北星学園(札幌)が、同校の生徒募集を2018年度に停止し、19年度末で閉校する方向で検討していることが分かった。同校は中途退学者の転入、編入を積極的に受け入れる高校の先駆けとして知られ、全国から生徒を集めたが、近年はフリースクールや同様の制度を設ける高校の増加で入学者数が減少。学校運営を続けることが難しくなったとみられる。

 関係者によると、同法人は北星余市高の16年度の入学者数が、定員140人のうち学校運営に必要とされる90人に達しなかった場合に、17年度は引き続き生徒を募集するものの、18年度からは募集を停止し、19年度末で閉校する方向で調整している。


経営が苦しい、ということは以前から聞いていました。
北星学園が母体で、余市高校はその組織体の一部なので、単独で判断できないことも多々あるのだろうと思います。
生徒さんや、保護者の方や、先生方が悔しい思いでいらっしゃることを想像すると苦しいものがあります。

近年、学校が多様化し、選択肢が増えたことは良いことだと思います。
しかし、サポート校の中には、ほとんど学校に通わずに卒業できるところもあります。それが一概にいけないことだと言うつもりはありませんが、北星余市のすごいところは、何と言っても集団の力で生徒さんを支えている点です。
ただ高卒の資格さえ取れたらいいのだ、ということではなく、学校に通うことの意味、学校でしかできないことの価値を教育の中でしっかり紡いでこられた学校です。

大人になって高校に入り直したいと、北星余市に入学する人もいます。年齢のばらつきがある中で、支えたり支えられたり、刺激を受けたりする経験。

「なんでここに来たの?」それだけ聞けば、答えは十人十色で。
それぞれの傷つきや、つまづきや、挫折や、未来への希望や不安や期待を外に出しても大丈夫な風土が北星余市にはある。「みんなそれぞれ事情がある」という前提からスタートしているからこその、強みだと思います。

元引きこもりと元ヤンキーがたまたま同じ下宿になって、友達になって支え合うというようなことが、起きるのはここぐらいじゃないでしょうか。(ピースボートの上でも起きるけど。普通に日本社会で生活していてもあまりないことだと思います。)
人間は、生身の人間関係の中でこそ回復し力づけられるのだと、そして学校はそういうことができる場なのだと、北星余市で私は感じました。

なくなってしまうのはあまりに惜しい学校です。

先生たちも保護者も、生徒も卒業生も、まだ諦めていないのだと思います。
最近Facebookを見ていても、卒業生の声や、メディアで取り上げられた情報や、生徒のユニークな取り組みがよく流れてきます。
先日は安河内校長がクラウドファンディングに挑戦し、見事に達成されていました。

一部ご紹介しますが、とても面白いので、ぜひ1つでも2つでも読んだり見たりしてみてください。

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私も、自分に何ができるか分からず、というかできることがほとんどなく、もどかしい思いでいますが、知ってもらうことはできるかな、と思い記事を書きました。
この学校のよさを感じてくださった方は、とりあえずFacebookで「北星余市の存続を願う会」を検索、いいね!して、情報をキャッチしてみてほしいです。

とにかく存続してほしいと心から願っています。

指示の声と、対話の声

声って大事。
音量とトーンと、あと何て言ったらいいんだろう、やわらかみの調節?

大勢の聴衆の興味を引きつけ、聞かせるための声は、大きくて通る太くて高い声。特定の誰かに届けるというよりは、力を入れて広い範囲の人にパーンと放射する感じ。聞く人と話す人がはっきり分かれている時の話し方。「刺激」するための声。ガシッと情報や考えを「注入」するための声。感じ悪くならないためにやわらかみは残して。でも、受信することに開かれていない発信のための声。指示や、プレゼンや講演の声。

もう一つの声は、ごく近くにいる人と話すような大きくない声。力を入れない声。発信しながらも受信に開かれている時の、やわらかいしっとりした声。余白を与える声。相手のことを聴くための声。対話の声。

説明が難しいけど、私たちは普段場面や相手によっていろんな声を使い分けてると思う。
私は指示の声を出すのがわりと得意だ。これは短い期間だったが教員をした時、とても「使えた」。これを濫用するのはよくないかもしれないけど、うまく使えないと結構苦労するので、引き出しに入れておくほうがいいとは思う。
でも、ちょっと世の中指示やプレゼンの声で溢れすぎてるんじゃないかな。学校も会社も、ひょっとすると場合によっては家庭ですら。そんなことないかな。
ほっとするのは、考える余白を与えてくれるのは、対話の声だと思う。それがもっと発せられるほうがいいなと思う。
私は、最近プレゼンや講演の時も、できるだけ対話の声で話すようにしている。

シュタイナー教育が顕著だが、オルタナティブ教育の教師は、ささやくように生徒に話すことが多い。フレネ教育は、もともとフレネが戦争で毒ガスを吸い、大きな声が出せなくなったことに端を発した教育だったりする(だから大きな声でコントロールしなくても子どもたちのが主体的・自主的に活動できる教育スタイルを考えた)。

指示の声と対話の声、どっちか、である必要はなくて、どっちもあっていいし、きっとどっちも要る。でも、私は親和的な対話の声がベースであるほうがいいなと思っている。

多様性という言葉の多様性がややこしいんですよね、という話。

今の時代の頻出ワードのひとつに『多様性』がある。
この言葉、いろんな人が、いろんな意味で、いろんな思いや考えを乗っけて使うので、とってもややこしいなと思う。
かく言う私もよく使うのだけど。
 
ちょっとこの言葉について書いてみる。自分の中ではよく考えてることで目新しい発見!気づき!とかではないけれど、こういうことって文章で説明するのはちょっとめんどくさくって、今まで書いたことはない。(直接人と話す時はよく話してるけど)
 
まず、『多様性』の捉え方・イメージの違いの1つに、一つのコミュニティの中に多様な価値観や立場・バックグラウンドの人が混在している状態を「多様性がある=目指す状態」と考える人と、1つ1つのコミュニティの中はある程度同質で、俯瞰して見たらカラフルである、ということを「多様性がある=目指す状態」と考える人がいる。
 
わかりやすいように、以下、前者を「コミュニティ内多様性」、後者を「コミュニティ間多様性」と呼ぶことにする。

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教育で言えば、例えば学校選択制とかフリースクール法制の話をする時に、推進派も反対派も「多様性の尊重・確保」のために...というようなことを言って、聞いてる人がしばしば「?」となるのはこの違いがあるためだ。
 
同質性のあるところのほうが、人間の精神状態は安定するし楽ちんだ。しかし、実は、そこには同僚圧力が働いていて、本当は存在している差異が見えなくされているということはよくあることだと思う(マイノリティの不可視化)。「私たち、だいたい同じ色だよねー。赤いやつとかありえないいねー。」というコミュニティは、違う色を持っている人にとっては自分を抑圧せざるをえなくて苦しい。

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同質性のあるコミュニティの中で、アイデンティティが安定して初めて、異質なものと関わり合うストレスに耐えうる、ということも確かにあるだろうとも思う。でもなんだかモヤっとした感じが残る。
 
私は「コミュニティ内多様性重視派」だと思う。コミュニティ内多様性を言っている人にとっては、多様性とは大変でストレスフルなものである。コミュニティ間多様性を言っている人にとっては多様性は安全で快適なものである。
 
どっちがいいのか、というようなことを数年来考えてきたけど、カラフルコミュニティも、モノカラーコミュニティもどっちも持って、行き来することを意識するのがいいのかな、というのが今の私の結論。ずっとストレスフルなのは嫌だししんどい、でもコミュニティ内でだけ生きていると、いろんな視点を失って、容易に無意識に誰かを抑圧してしまうことになると思う。
 

そんなわけで、いろんな人と関わることを大事にしたい。

多様性が大事だよね」っていう人たちに中には、「多様性って大事だよね」という言葉が通じる人たちとしか関わってないよね?という人たちも結構いる。「それってどうなの?楽かもしれないけど、それで多様性が大事って矛盾してないか?」って思ってしまうことが、よくある。まぁあえてそうしてる人もいるし、一概に言えないけど。
私は「多様性って大事だよね」と言われて「...は?」って反応するような人たちと関わり合ってつながっていきたいなーと思う。
 
多様性って大変。違うって超ストレスフル。
でも、それに取り組んでいく必要性があると思うし、やっぱり時代のキーワードだなって思う。
 
もう一つの視点。
多様性の尊重」という時に、それを"目的"とする考え方と、"条件・手段"とする考え方があると思う。
前者は、人権として、一人ひとりのあり方が尊重されるべき、多様性の尊重はそれ自体がゴールだという人々。
後者は、多様性は力になる、多様性を活かすことがパフォーマンスを高める、という人々。この人たちにとってはゴールはパフォーマンスで、多様性はあくまで条件・手段。
ソーシャルインクージョン的な発想と、ソーシャルイノベーション的な発想ともいえるし、多様性そのものが価値だという考え方と、多様性が価値を生むのだという考え方ともいえる。
 
あえて分けて対立的に書いたけれど、この2つは別に矛盾しない。
前者をベースに、後者も目指す、というのが私の考えだし、普段コアプラスのコミュニティ運営でチャレンジしていることでもある。
ただ、前者をすっとばして後者の話をしてる人が経営者とか政治家とかにいる気がして、それは結構怖い。
私は、多様性を語る人が目の前に現れた時、この人は目的としての多様性を語っているのか、手段・条件としての可能性を語っているのか、両方を語っているのか、両方語ってるとしたら、主にどっちに重点があるのか...を注意深く聞くようにしている。ほんとは手段としてしか考えていなくても、目的としても考えてるように語れてしまうから、判断が難しい。その人の言動や判断から、見極めるしかない。
えっと....この人はこっち、あの人はこっち、っていう私の判断のを書こうかと思ったけど、一応やめておきます(笑)
 
ツラツラと書いてたら長くなってしまったー。
誰か最後まで読んでくれるのだろうか(^^;;
 
おしまい!

ブログを続けるためのメモ

書き始めさえすれば書ける

あまり最初から長く書こうとしない。7割ぐらいの出来でもUPしてしまう。
誰にでも分かるように説明しようとしてしまうが、それで億劫になるぐらいなら、説明しすぎないほうがいい。とにかく気軽に書く。
 

スマホで書くほうが書ける

多分それは私が注意力が散漫で、身体スマートだから。視野が狭い(比喩でなく具体的な意味で)ほうが集中できるらしい。パソコンだと考えてから書く(手が動く)、という感じになるけど、スマホだと考えながら書く(手が動く)になる。そのほうが私は考えやすいらしい。
 

右脳でも書く

左脳で考えると書けなくなってしまう類のトピックがある。感覚的な事柄は、感覚的なままに言葉にする。左脳で論理フィルターを通すとストップかかっちゃったり。こないだのテロの記事なんかは、左脳で書いた感じ。それでいい。
 

いつもゼロから考えなくていい

例えば、ニュースや人のブログをひっぱってきて、それにコメントするのでもいい。私はゼロから1のステップはあまり得意じゃないので、人の書いたものを紹介させてもらって、自分なりの独自の視点を加えるとかもあり。
 

日記的なエピソードも書く

私は今日の出来事的なことを書くのがあまり好きではない。気づきや考えを説明するために出来事を書くことはあるけど、それ以外で、これまであまりブログに日記的なことを書いたことがない。
でも、日記的な記事を書きながら、改めて気づくこと、考えることもあるだろうと思うので、ちょっとエピソードを書くことにも挑戦してみよう。
 
そんなわけで...ブログが自然消滅しないようにがんばるーー。

フランス同時テロによせて。

今朝は、実家で目を覚ます。
玄関に落ちていた新聞の一面。
「フランス同時テロ IS犯行声明」の見出しに涙が出た。
繰り返されて増幅する憎悪・悲しみ、負の連鎖はどうすれば断ち切れるのだろう。

オランド大統領による非常事態宣言、「我々は戦争に直面している」というコメント。
各国からのテロへの非難とフランスへの連帯・支援声明。
もちろんテロは許容すべきものではない。
亡くなった方や、その家族や恋人や、大切な人たちのことを想像すると本当に胸が苦しい。
でも、「テロに屈しない」「卑劣な行為」という強いコメントにもやもやした感情も覚える。
Facebookで広がっているフランスの国旗のアイコンにも、私はなんか違う、と思う。

テロを起こした人たちの味方はできない。ISのやっていることは確かに酷く、許せない。テロだけでなくシリアでやっていることも。
でも、それを引き起こしているものが何なのか、裏側もちゃんと見たい。知りたい。
今繰り返されているテロは、虐げられ、踏みつけられ、屈折してしまった弱者たちによる報復なのではないか。また、それら弱者の憎悪を利用する者たちによる犯行ではないのか。
それにまた、力(空爆)で抵抗して、何か解決するのだろうか。
終わりのない迷路に、堕ちていくだけではないか。

中東では、毎日のように、一般市民や子どもたちの頭の上に爆弾が降っている。
対テロ戦争という「正義」の名のもとに。

安倍首相は、「共通の価値観を奉ずるフランスが、いま困難に直面している。日本国民はフランス国民とともにある。 我々は結束を表明する」と述べたそうだ。
アメリカのオバマ大統領は今回のテロを「人類が共有する普遍的な価値への攻撃」として非難した。

そうかもしれない。いや、確かにそう言えると思う。
日本や欧米の国々が報じている普遍的な価値...おそらく、民主主義や、自由、人権の概念のことを言っているのだろう。そしてその価値は私も大切にしたいと思っている。
でも。紛争の原因をつくり、空爆で一般市民をたくさん死なせてテロの温床を生み出しているのは誰。テロリストと一般市民を一緒くたにして敵視して、ムスリムの人たちに社会不信を抱かせているのは誰。そのことに無知で無理解なのは、そこに思いをはせることができていないのは誰。
この世界における、中東の国々に暮らす人々と、先進国・欧米の命の価値の扱いは、客観的に言って、まったく平等じゃない。そのことに、先進国に生きる私は自覚的でいたい。

力に力で対抗しても状況はひどくなるばかりだろう。対話と政治の回路を見つけないといけない。夢見事のように思われるかもしれないけれど、それが根本解決に向けた最も現実的路線ではないか。

バタバタとした日常の中で、つい簡単に忘れそうになってしまうけれど、こうではない世界をつくりたいのだ。こうではない世界にしたいがために、仕事をしているのだ。
だからもっと勉強しないといけない。もっと考えないといけない。もっと人と向き合わないといけない。という思いを強くさせられた。

テロに遭い、尊い命を奪われた皆さんに心から哀悼の意を。
被害者にも加害者にもならなくていい、世界に一歩でも近づけたい。

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以下、私が、共感した記事を共有しておきます。

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重大発表。ピースボートの洋上で、教員志望者向けプログラム「Global Teacher's College」を始めます。

先日リリースした「Global Teacher's College」。
船に乗って地球を一周し、様々な国で学校や教育現場を視察・現地の子どもたちや教師と交流するとともに、洋上ではこれからの教員に必要なスキルや視点を育むプログラムを実施するというもの。

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実は、私の中では数年間あたためてきたアイデア
今回かたちになって本当にうれしいし、何が何でも良いものにしようという意気込みが、自分で言うのも変だけど、ハンパではなく、強い。 参加してもらえれば、間違いなく学び多い3ヶ月になるという確信があるからだ。私は普段あまり物事を言い切らないタイプだけれど、今回確信している理由はいくつもある。

これからちょこちょこ書いていこうと思うのだが、まず今回は1つ目。
兎にも角にもピースボートの船の上という環境がものすごくいい。

  • 多民族・多文化・多国籍な船内

乗客として乗っているのは日本人がほとんど。でも、NGOピースボートのスタッフや洋上英会話教室GETの先生、船のクルーなどは本当に様々な国の人がいる。毎日が国際交流である。英語を使う機会が多いのはもちろん、コミュニケーションの中でカルチャーショックを受けることもしばしば。自文化や自分の価値観をメタ認知(客観的に自覚)できるようになることはこれからの教員にとってもものすごく重要なことだと私は思うけれど、トレーニングするのはちょっと大変。でもこの環境に入ってしまえば、おのずと高まる。

  • 日本社会にいては関われ(ら)ないような人との出会い

乗客の日本人も本当に多様。ピースボートの人たちは日本社会のことを"陸"と言いますが(笑)普通に陸生活をしていればだいたい自分と同じような社会背景や学力層・経済階層の人との関わりがほとんどになりがち。船には、ヤンキーしてたり、引きこもっていたというような若者から、大手企業の役員をやって退職したというシニアの方まで、本当にいろんな人がいる。

  • 溢れる刺激・そこらじゅうに転がっているキッカケ

移動中の船の上では、基本的に毎日どんな風に過ごしても自由。
ただ、実は毎日無数の企画が行われる。ゲストとして乗船してくる研究者や活動家やエンターテイナーの方達による講演やワークショップ。ヨガやピラティス、水彩画などのカルチャースクール。そして参加者が自由に企画する「自主企画」。大きな規模のものとしては運動会や文化祭。
世界平和や持続可能な世界を考えるような真面目(?)な社会派(?)の企画から、おもいっきりふざけたアホ企画まで本当にいろいろ。それらを全部無視して一日中海を見て過ごしてもいい。そんな中で今まで触れなかったものに触れたり、新しいチャレンジをしてみようと思えたり。種がたくさん撒かれているのが船内生活なのだ。

とりあえず今回はこのぐらいで。
次回は「ともに高め合う仲間がいる環境」について書く予定〜。


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クラウドファンディング(web上の寄付)のページも完成。
( ↓ 皆様、ご協力よろしくお願いいたします。)

 

 

「風のように、土のように」というブログタイトルの意味。

「風と土」というのは、私が生きるうえでこだわっているキーワードだ。
19歳の時に、国際NGOピースボートが主催する「地球一周の船旅」に参加し、3ヶ月間世界を旅した際に、船の上で、環境活動家の田中優さんの口から初めてこの言葉を聞いた。

「人には、地に足をつけて一つの地域やテーマに根ざして生きていく土の人と、多様なものとつながり世界を飛び回る風の人がいる。両者は、互いに反目しがちだが、風の人と土の人が手を取り合った時に、風土が生まれ、社会は変わるのだと思う。」

私は、地元の地域コミュニティで、そこの文化と人の中で育ち、そこに愛着とアイデンティティを感じている。まして地元は被差別部落で、そういう意味ではテーマ性もあり、私にとってはひっぱられるものがあるというか。こだわりがある土地・こだわりがあるテーマがそこにある。それがなければ私は私にならなかったと思う。
でも、そこだけにいると苦しくなってしまう。ずっとそこにいられない。

ピースボートに乗って以来、新しい場に出かけたり人と出会ったりしながら、何か活動を生み出すのがとても楽しくなった。性分としては、風の要素が強いのだろう。じっくりコツコツというより衝動性と勢いで生きている。それが時に地元では受け入れられにくいところもあるけれど、最近は、なんというかいい意味で諦められている気がする。「みどりはああいうヤツやからしゃーない」という感じで。

11年前、ピースボートでの旅が終わるタイミングで綴った文章にはこんなことが書いてある。

「私は土の人でもありたいし、風の人でもありたい。
風と土をつなげる人でもありたい。
贅沢かもしれないけれど、船を下りたらそういう生き方を私なりに探っていきたい。そういうふうに、生きていきたい。」

11年経って今この言葉を見ると、時に土と風との引き裂かれ感に苛まれながらも、結構誠実に、そのように生きてきた気がする。