ゆく年くる年

私は時間感覚が短い?みたいで、基本的にすごく先のことは考えられないし、ちょっと前のことをすぐ忘れる。
だから、新年、という節目がほっといても定期的にやってくるというのはありがたいことだ。振り返ったり、先を考える機会になる。
そんなわけで、書いてみる。

〜2015年の振り返り〜
・1月にco-arcができた。コワーキングの機能はほとんど使われず当初のイメージとそこは違ったが、イベントやワークショップでレンタルスペースとして利用してもらったり、コアプラスでも主催事業を回しながら、なんとか1年維持することができた。場所を持つことの大変さも感じたが、それ以上に場所を持つことのパワーを実感した。活動の幅も、集まってくる人の層も広がり、コアプラスの認知度も高まった。
・3月までは学校支援事業があって、その実務が非常に重たかった。マンパワー、組織体力不足のまま突っ走ってなんとかかたちにはなったけれど、事業として質がよかったとは言えなかった。「まあいけるやろ」とすぐ見切り発車してしまうところは、長所でも短所でもある。もう少し、ブレーキを踏むことを覚えたい。またここぞという時にブレーキを(かなり強めに)踏んでくれる仲間をもっと増やしたい。とはいえ学校支援事業をやったことでの学びはとても大きかった。
・3月には、「鵜野の一揆」があり、それを契機についにコアプラスに事務局ができ、またスタッフ制度もできた。私に違和感や反発を表明してくれた仲間のおかげで、結果的に「自分はコアプラスの人」だと所属感を持ってくれる仲間、責任と希望を共に持ってくれる仲間が、1年間で本当に増えた。
・4月から夏前まではわりとヒマでぼーっとしてた。追われないとアクセル踏めないギリギリ族の私らしく、いろんなことを先延ばしにしたし、ほんとはこの期間にやればよかったのになぁ、ということはたくさんあった。でも、この期間は結構精神的に安定していた。家にいて家事をしたり料理をしたりできる時間がしっかりあって、それがとても心地よかった。
・夏から11月ごろまで、怒涛の研修ラッシュが始まり、収入は増えるものの、自分のエネルギーがどんどんすり減っていった。「やりたいこと」「エネルギーが湧いてくること」に集中したいという意味では研修の数はセーブしたい気持ちもあるけれど、経済的な理由で、なかなか難しいところ。研修が嫌いなわけではないが、量が多すぎるといけない、持続可能なボリュームとしては月5本程度が限度だと感じた。
・9月ごろ、3年ほどあたためていたピースボート洋上で教員志望者向けのプログラムがしたいというアイデアが急激に再燃してきてその勢いのまま提案書をつくってピースボートに投げ、実現することに。急ピッチで準備をして、12月にやっとパンフとwebがリリースできた。この間ものすごく楽しく、こういうワクワクすることを、私はどんどんやっていかないといけないと思った。こういうひらめいちゃったことに突っ走ってる時が一番幸せだなーと思う。
・プライベートでいうと、コアプラスの仲間と、ピースボートの仲間以外との付き合いがとても少なかった。もうちょっと広げたほうはいいかなぁとも思うけれど、悩ましいところ。高校の友達のMと会うようになったのはよかったこと。朝散歩とか、楽しかったな。家族には甘えっぱなしで、好き放題で、本気で何の貢献もしなかったな...。その辺りは、そろそろもっと大人になろう...。

2015年の一番大きかったことは、間違いなく、コアプラスに仲間が増えたことだ。理事メンバーたちとほとんど同じような感覚で、「仲間だな」と思える人たちが何人もできて、かつ「仕事でのお付き合い」ということではないつながり感を持つことができたと思う。それは、少し前まで私が求めて求めて得られなかったもの。ほんとにうれしい。大事にしなきゃな。
みんなありがとう。愛してるよ。

〜2016年の目標と意識すること〜
⚫︎お仕事関係
テーマ:選択と集中→質の劇的な向上
・GTCと海外フィールドスタディの事業の収益化
・コアプラス事業の「コアっぽさ」を3倍にする(実感値)
・co-arcに力を注ぐのは2017年からと割り切って、実働エネルギーを注がない。企画をやる以外で地域とつながれる戦略を担当に考えてもらう。
・講演/研修の仕事はMAX月5本。
・人にもっと頼る。(できないこと・苦手なことはやってもらう。考えること実行することも手伝ってもらう。)
ファシリテーションを手放さない。スキルアップ、勉強にちゃんとエネルギーを使う。

プライベートでいうと、人に依存しないこと。頼るのはいいけど相手を無下にしたり、近いゆえに扱いが雑になったりしないように。また、寄りかかることで一人で立てなくならないように。
それから、もう少しおうちにいたい。いよう。体にいいおいしいものをきれいな気持ちいい部屋で食べて。朝は早く起きてコーヒーを入れて。必要以上に夜更かしせずに。そういう暮らしをできるだけ維持しよう。

そんなわけで、2015年は大変お世話になりました。2016年もぼちぼち無理しすぎずにがんばりたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。

「私たちが選択したら、世界を変えることができる」

先日、コアプラスのESD研究会の一回目が行われた。

ESDとは、Educatoion for Sustainable Development(持続可能な開発のための教育)の略。

団体内で、どんな企画や研究会をやりたい?というブレストをしてきた中で、出てきたテーマの1つで、その場で熱があったので残った。
フェローの山本一成くんが担当を買って出てくれて、今回が初回だった。
私は、実はESDは、自分の生涯探求していくテーマなんだと思っている。

「私の人生は私がつくっている」
「私たちの社会は私たちがつくっている」
そんなふうに責任と希望を持って言える人がいっぱいになったら、きっともっと素敵な世界になる。
自分と地域が、社会が、世界がつながってて、関わりあってるんだ、ということの実感を学べたらいいな。
ずっとそう思って、コアプラスの活動も、人権教育のワークショップも、やっている。

今日は、箕面こどもの森学園の中尾有里ちゃんが話題提供をしてくれた。

食の授業を終えた後、プレゼンで、子どもが「私たちが選択したら、世界を変えることができる」と言ったという。すごいなぁと思う。

そんなことを、実感として、頭と心と身体で理解する。

そういう教育がESDだと思う。

 

私が、「ESDはいいなぁ」と思うのは、コンセプトだからだ。

ちなみに他に私がいいと思っているイエナプランも、ESDほどノンスタイルではないけど、コンセプトである。そしてイエナプランもESDだ。

コンセプトのもとに、システムや取り組み・実践が集まる。それがいいと思う。

 

ESDを意識すると、自ずと学びはホリスティックになる。

自ずと自分を見つめることになるし、”自分"をつくる手伝いをすることになる。世界とつながるには自分の「観(もののみかた)」必要だからだ。

自ずと人権教育になる。国際理解教育になる。平和教育になる。

自ずと子ども・学習者中心になる。未来をつくるのは子どもだからだ。

だから、教師の役割は自ずとファシリテーションになる。

 

研究会で、コアプラスのアドバイザーでもあるふーみんさんが

「なんで持続可能な “開発(発展)”のための教育なんだろう。そこにもやっとする。」とつぶやいた。

なぜEducation for Sustainability ではいけないのか。確かに。

国連で採択されて、国が推進している時点で政治的に出てきたものであることは間違いない。

それに注意が必要であることは間違いない。

ただ、正直、ESDって呼ぶかどうかはどうでもいい。それはラベルでしかない。

ラベルは便利に使いつつ、それぞれの市民がやるべきだと思うことをやればいいのだと思う。

 

…と書いているうちに、電車の窓から遠くに富士山が見える。

手を止めて、しばし眺める。とても美しいと思う。

時々車窓を流れる雑木林も、秋の色に染まっている。

(今、西武池袋線飯能駅に向かっている。今日は自由の森学園に行くのだ。)

 

私は、私たちは、どんな未来を見たいのかーー。

 

深呼吸したくなるような、豊かな自然を残したい。

戦争や紛争や貧困や飢餓で死ぬ人がいないようにしたい。

テロが起こらないようにしたい。

違いのある人たちが互いに尊重し協力し合える未来がいい。

孤独死や虐待がないようにしたい。

過労死ワーキングプアがないようにしたい。

安全で安心な食べ物を食べたい。

人や自然を傷つけないプロセスでつくられた物を買いたい。

ホームレスにならなくていいようにしたい。

みんなが自分らしくはたらきながら、心地よく暮らしていける未来がいい。

 

頭だけではなく、心と身体を使って、学ぶ、はたらく、人と関わる、物事を見る。

数字で捉えられない、目には見えないものにも思いをはせる。

 

私、いつか現場を持つながら、ESDの実践がやりたいな。

ESDスクールとかつくろうかな。そのためにも、ESD研究会は、ガシッとやりたいな。


 * * *

ESDに興味がわいた人におすすめなのはこの本。一番わかりやすくて、包括的。

実践書ではないけど、コンセプトとそれに関連する所項目がまとまっている。

 

未来をつくる教育ESD―持続可能な多文化社会をめざして―:Amazon.co.jp:本

北星余市高校の閉校検討のニュースを受けて。

北星学園余市高等学校を知っていますか?
北海道のワインとウイスキーの町・余市町にある私立高校です。
義家さんの「ヤンキー先生母校へ帰る」のモデルになった学校といえば、「ああ、あの高校か」と分かってもらえるのではないかと思います。

ずっと昔から、全国から、非行や不登校の若者を受け入れ、福祉機関や警察や町の下宿の人々ともネットワークを組みながらサポートし、社会へ送り出してきた、ものすごい学校です。
アプラスも、北海道に訪れた際には見学や先生・生徒さんとの意見交換をさせていただき、夜も先生たちと飲み...とてもお世話になっています。

その北星余市高校について、今日、こんな報道がありました。

 

headlines.yahoo.co.jp

一部抜粋

北海道余市町の北星学園余市高(安河内敏校長、161人)を運営する学校法人北星学園(札幌)が、同校の生徒募集を2018年度に停止し、19年度末で閉校する方向で検討していることが分かった。同校は中途退学者の転入、編入を積極的に受け入れる高校の先駆けとして知られ、全国から生徒を集めたが、近年はフリースクールや同様の制度を設ける高校の増加で入学者数が減少。学校運営を続けることが難しくなったとみられる。

 関係者によると、同法人は北星余市高の16年度の入学者数が、定員140人のうち学校運営に必要とされる90人に達しなかった場合に、17年度は引き続き生徒を募集するものの、18年度からは募集を停止し、19年度末で閉校する方向で調整している。


経営が苦しい、ということは以前から聞いていました。
北星学園が母体で、余市高校はその組織体の一部なので、単独で判断できないことも多々あるのだろうと思います。
生徒さんや、保護者の方や、先生方が悔しい思いでいらっしゃることを想像すると苦しいものがあります。

近年、学校が多様化し、選択肢が増えたことは良いことだと思います。
しかし、サポート校の中には、ほとんど学校に通わずに卒業できるところもあります。それが一概にいけないことだと言うつもりはありませんが、北星余市のすごいところは、何と言っても集団の力で生徒さんを支えている点です。
ただ高卒の資格さえ取れたらいいのだ、ということではなく、学校に通うことの意味、学校でしかできないことの価値を教育の中でしっかり紡いでこられた学校です。

大人になって高校に入り直したいと、北星余市に入学する人もいます。年齢のばらつきがある中で、支えたり支えられたり、刺激を受けたりする経験。

「なんでここに来たの?」それだけ聞けば、答えは十人十色で。
それぞれの傷つきや、つまづきや、挫折や、未来への希望や不安や期待を外に出しても大丈夫な風土が北星余市にはある。「みんなそれぞれ事情がある」という前提からスタートしているからこその、強みだと思います。

元引きこもりと元ヤンキーがたまたま同じ下宿になって、友達になって支え合うというようなことが、起きるのはここぐらいじゃないでしょうか。(ピースボートの上でも起きるけど。普通に日本社会で生活していてもあまりないことだと思います。)
人間は、生身の人間関係の中でこそ回復し力づけられるのだと、そして学校はそういうことができる場なのだと、北星余市で私は感じました。

なくなってしまうのはあまりに惜しい学校です。

先生たちも保護者も、生徒も卒業生も、まだ諦めていないのだと思います。
最近Facebookを見ていても、卒業生の声や、メディアで取り上げられた情報や、生徒のユニークな取り組みがよく流れてきます。
先日は安河内校長がクラウドファンディングに挑戦し、見事に達成されていました。

一部ご紹介しますが、とても面白いので、ぜひ1つでも2つでも読んだり見たりしてみてください。

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readyfor.jp



私も、自分に何ができるか分からず、というかできることがほとんどなく、もどかしい思いでいますが、知ってもらうことはできるかな、と思い記事を書きました。
この学校のよさを感じてくださった方は、とりあえずFacebookで「北星余市の存続を願う会」を検索、いいね!して、情報をキャッチしてみてほしいです。

とにかく存続してほしいと心から願っています。

指示の声と、対話の声

声って大事。
音量とトーンと、あと何て言ったらいいんだろう、やわらかみの調節?

大勢の聴衆の興味を引きつけ、聞かせるための声は、大きくて通る太くて高い声。特定の誰かに届けるというよりは、力を入れて広い範囲の人にパーンと放射する感じ。聞く人と話す人がはっきり分かれている時の話し方。「刺激」するための声。ガシッと情報や考えを「注入」するための声。感じ悪くならないためにやわらかみは残して。でも、受信することに開かれていない発信のための声。指示や、プレゼンや講演の声。

もう一つの声は、ごく近くにいる人と話すような大きくない声。力を入れない声。発信しながらも受信に開かれている時の、やわらかいしっとりした声。余白を与える声。相手のことを聴くための声。対話の声。

説明が難しいけど、私たちは普段場面や相手によっていろんな声を使い分けてると思う。
私は指示の声を出すのがわりと得意だ。これは短い期間だったが教員をした時、とても「使えた」。これを濫用するのはよくないかもしれないけど、うまく使えないと結構苦労するので、引き出しに入れておくほうがいいとは思う。
でも、ちょっと世の中指示やプレゼンの声で溢れすぎてるんじゃないかな。学校も会社も、ひょっとすると場合によっては家庭ですら。そんなことないかな。
ほっとするのは、考える余白を与えてくれるのは、対話の声だと思う。それがもっと発せられるほうがいいなと思う。
私は、最近プレゼンや講演の時も、できるだけ対話の声で話すようにしている。

シュタイナー教育が顕著だが、オルタナティブ教育の教師は、ささやくように生徒に話すことが多い。フレネ教育は、もともとフレネが戦争で毒ガスを吸い、大きな声が出せなくなったことに端を発した教育だったりする(だから大きな声でコントロールしなくても子どもたちのが主体的・自主的に活動できる教育スタイルを考えた)。

指示の声と対話の声、どっちか、である必要はなくて、どっちもあっていいし、きっとどっちも要る。でも、私は親和的な対話の声がベースであるほうがいいなと思っている。

多様性という言葉の多様性がややこしいんですよね、という話。

今の時代の頻出ワードのひとつに『多様性』がある。
この言葉、いろんな人が、いろんな意味で、いろんな思いや考えを乗っけて使うので、とってもややこしいなと思う。
かく言う私もよく使うのだけど。
 
ちょっとこの言葉について書いてみる。自分の中ではよく考えてることで目新しい発見!気づき!とかではないけれど、こういうことって文章で説明するのはちょっとめんどくさくって、今まで書いたことはない。(直接人と話す時はよく話してるけど)
 
まず、『多様性』の捉え方・イメージの違いの1つに、一つのコミュニティの中に多様な価値観や立場・バックグラウンドの人が混在している状態を「多様性がある=目指す状態」と考える人と、1つ1つのコミュニティの中はある程度同質で、俯瞰して見たらカラフルである、ということを「多様性がある=目指す状態」と考える人がいる。
 
わかりやすいように、以下、前者を「コミュニティ内多様性」、後者を「コミュニティ間多様性」と呼ぶことにする。

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教育で言えば、例えば学校選択制とかフリースクール法制の話をする時に、推進派も反対派も「多様性の尊重・確保」のために...というようなことを言って、聞いてる人がしばしば「?」となるのはこの違いがあるためだ。
 
同質性のあるところのほうが、人間の精神状態は安定するし楽ちんだ。しかし、実は、そこには同僚圧力が働いていて、本当は存在している差異が見えなくされているということはよくあることだと思う(マイノリティの不可視化)。「私たち、だいたい同じ色だよねー。赤いやつとかありえないいねー。」というコミュニティは、違う色を持っている人にとっては自分を抑圧せざるをえなくて苦しい。

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同質性のあるコミュニティの中で、アイデンティティが安定して初めて、異質なものと関わり合うストレスに耐えうる、ということも確かにあるだろうとも思う。でもなんだかモヤっとした感じが残る。
 
私は「コミュニティ内多様性重視派」だと思う。コミュニティ内多様性を言っている人にとっては、多様性とは大変でストレスフルなものである。コミュニティ間多様性を言っている人にとっては多様性は安全で快適なものである。
 
どっちがいいのか、というようなことを数年来考えてきたけど、カラフルコミュニティも、モノカラーコミュニティもどっちも持って、行き来することを意識するのがいいのかな、というのが今の私の結論。ずっとストレスフルなのは嫌だししんどい、でもコミュニティ内でだけ生きていると、いろんな視点を失って、容易に無意識に誰かを抑圧してしまうことになると思う。
 

そんなわけで、いろんな人と関わることを大事にしたい。

多様性が大事だよね」っていう人たちに中には、「多様性って大事だよね」という言葉が通じる人たちとしか関わってないよね?という人たちも結構いる。「それってどうなの?楽かもしれないけど、それで多様性が大事って矛盾してないか?」って思ってしまうことが、よくある。まぁあえてそうしてる人もいるし、一概に言えないけど。
私は「多様性って大事だよね」と言われて「...は?」って反応するような人たちと関わり合ってつながっていきたいなーと思う。
 
多様性って大変。違うって超ストレスフル。
でも、それに取り組んでいく必要性があると思うし、やっぱり時代のキーワードだなって思う。
 
もう一つの視点。
多様性の尊重」という時に、それを"目的"とする考え方と、"条件・手段"とする考え方があると思う。
前者は、人権として、一人ひとりのあり方が尊重されるべき、多様性の尊重はそれ自体がゴールだという人々。
後者は、多様性は力になる、多様性を活かすことがパフォーマンスを高める、という人々。この人たちにとってはゴールはパフォーマンスで、多様性はあくまで条件・手段。
ソーシャルインクージョン的な発想と、ソーシャルイノベーション的な発想ともいえるし、多様性そのものが価値だという考え方と、多様性が価値を生むのだという考え方ともいえる。
 
あえて分けて対立的に書いたけれど、この2つは別に矛盾しない。
前者をベースに、後者も目指す、というのが私の考えだし、普段コアプラスのコミュニティ運営でチャレンジしていることでもある。
ただ、前者をすっとばして後者の話をしてる人が経営者とか政治家とかにいる気がして、それは結構怖い。
私は、多様性を語る人が目の前に現れた時、この人は目的としての多様性を語っているのか、手段・条件としての可能性を語っているのか、両方を語っているのか、両方語ってるとしたら、主にどっちに重点があるのか...を注意深く聞くようにしている。ほんとは手段としてしか考えていなくても、目的としても考えてるように語れてしまうから、判断が難しい。その人の言動や判断から、見極めるしかない。
えっと....この人はこっち、あの人はこっち、っていう私の判断のを書こうかと思ったけど、一応やめておきます(笑)
 
ツラツラと書いてたら長くなってしまったー。
誰か最後まで読んでくれるのだろうか(^^;;
 
おしまい!

ブログを続けるためのメモ

書き始めさえすれば書ける

あまり最初から長く書こうとしない。7割ぐらいの出来でもUPしてしまう。
誰にでも分かるように説明しようとしてしまうが、それで億劫になるぐらいなら、説明しすぎないほうがいい。とにかく気軽に書く。
 

スマホで書くほうが書ける

多分それは私が注意力が散漫で、身体スマートだから。視野が狭い(比喩でなく具体的な意味で)ほうが集中できるらしい。パソコンだと考えてから書く(手が動く)、という感じになるけど、スマホだと考えながら書く(手が動く)になる。そのほうが私は考えやすいらしい。
 

右脳でも書く

左脳で考えると書けなくなってしまう類のトピックがある。感覚的な事柄は、感覚的なままに言葉にする。左脳で論理フィルターを通すとストップかかっちゃったり。こないだのテロの記事なんかは、左脳で書いた感じ。それでいい。
 

いつもゼロから考えなくていい

例えば、ニュースや人のブログをひっぱってきて、それにコメントするのでもいい。私はゼロから1のステップはあまり得意じゃないので、人の書いたものを紹介させてもらって、自分なりの独自の視点を加えるとかもあり。
 

日記的なエピソードも書く

私は今日の出来事的なことを書くのがあまり好きではない。気づきや考えを説明するために出来事を書くことはあるけど、それ以外で、これまであまりブログに日記的なことを書いたことがない。
でも、日記的な記事を書きながら、改めて気づくこと、考えることもあるだろうと思うので、ちょっとエピソードを書くことにも挑戦してみよう。
 
そんなわけで...ブログが自然消滅しないようにがんばるーー。

フランス同時テロによせて。

今朝は、実家で目を覚ます。
玄関に落ちていた新聞の一面。
「フランス同時テロ IS犯行声明」の見出しに涙が出た。
繰り返されて増幅する憎悪・悲しみ、負の連鎖はどうすれば断ち切れるのだろう。

オランド大統領による非常事態宣言、「我々は戦争に直面している」というコメント。
各国からのテロへの非難とフランスへの連帯・支援声明。
もちろんテロは許容すべきものではない。
亡くなった方や、その家族や恋人や、大切な人たちのことを想像すると本当に胸が苦しい。
でも、「テロに屈しない」「卑劣な行為」という強いコメントにもやもやした感情も覚える。
Facebookで広がっているフランスの国旗のアイコンにも、私はなんか違う、と思う。

テロを起こした人たちの味方はできない。ISのやっていることは確かに酷く、許せない。テロだけでなくシリアでやっていることも。
でも、それを引き起こしているものが何なのか、裏側もちゃんと見たい。知りたい。
今繰り返されているテロは、虐げられ、踏みつけられ、屈折してしまった弱者たちによる報復なのではないか。また、それら弱者の憎悪を利用する者たちによる犯行ではないのか。
それにまた、力(空爆)で抵抗して、何か解決するのだろうか。
終わりのない迷路に、堕ちていくだけではないか。

中東では、毎日のように、一般市民や子どもたちの頭の上に爆弾が降っている。
対テロ戦争という「正義」の名のもとに。

安倍首相は、「共通の価値観を奉ずるフランスが、いま困難に直面している。日本国民はフランス国民とともにある。 我々は結束を表明する」と述べたそうだ。
アメリカのオバマ大統領は今回のテロを「人類が共有する普遍的な価値への攻撃」として非難した。

そうかもしれない。いや、確かにそう言えると思う。
日本や欧米の国々が報じている普遍的な価値...おそらく、民主主義や、自由、人権の概念のことを言っているのだろう。そしてその価値は私も大切にしたいと思っている。
でも。紛争の原因をつくり、空爆で一般市民をたくさん死なせてテロの温床を生み出しているのは誰。テロリストと一般市民を一緒くたにして敵視して、ムスリムの人たちに社会不信を抱かせているのは誰。そのことに無知で無理解なのは、そこに思いをはせることができていないのは誰。
この世界における、中東の国々に暮らす人々と、先進国・欧米の命の価値の扱いは、客観的に言って、まったく平等じゃない。そのことに、先進国に生きる私は自覚的でいたい。

力に力で対抗しても状況はひどくなるばかりだろう。対話と政治の回路を見つけないといけない。夢見事のように思われるかもしれないけれど、それが根本解決に向けた最も現実的路線ではないか。

バタバタとした日常の中で、つい簡単に忘れそうになってしまうけれど、こうではない世界をつくりたいのだ。こうではない世界にしたいがために、仕事をしているのだ。
だからもっと勉強しないといけない。もっと考えないといけない。もっと人と向き合わないといけない。という思いを強くさせられた。

テロに遭い、尊い命を奪われた皆さんに心から哀悼の意を。
被害者にも加害者にもならなくていい、世界に一歩でも近づけたい。

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以下、私が、共感した記事を共有しておきます。

blog.goo.ne.jp