ゆく年くる年
「私たちが選択したら、世界を変えることができる」
先日、コアプラスのESD研究会の一回目が行われた。
ESDとは、Educatoion for Sustainable Development(持続可能な開発のための教育)の略。
団体内で、どんな企画や研究会をやりたい?というブレストをしてきた中で、出てきたテーマの1つで、その場で熱があったので残った。
フェローの山本一成くんが担当を買って出てくれて、今回が初回だった。
私は、実はESDは、自分の生涯探求していくテーマなんだと思っている。
「私の人生は私がつくっている」
「私たちの社会は私たちがつくっている」
そんなふうに責任と希望を持って言える人がいっぱいになったら、きっともっと素敵な世界になる。
自分と地域が、社会が、世界がつながってて、関わりあってるんだ、ということの実感を学べたらいいな。
ずっとそう思って、コアプラスの活動も、人権教育のワークショップも、やっている。
今日は、箕面こどもの森学園の中尾有里ちゃんが話題提供をしてくれた。
食の授業を終えた後、プレゼンで、子どもが「私たちが選択したら、世界を変えることができる」と言ったという。すごいなぁと思う。
そんなことを、実感として、頭と心と身体で理解する。
そういう教育がESDだと思う。
私が、「ESDはいいなぁ」と思うのは、コンセプトだからだ。
ちなみに他に私がいいと思っているイエナプランも、ESDほどノンスタイルではないけど、コンセプトである。そしてイエナプランもESDだ。
コンセプトのもとに、システムや取り組み・実践が集まる。それがいいと思う。
ESDを意識すると、自ずと学びはホリスティックになる。
自ずと自分を見つめることになるし、”自分"をつくる手伝いをすることになる。世界とつながるには自分の「観(もののみかた)」必要だからだ。
自ずと人権教育になる。国際理解教育になる。平和教育になる。
自ずと子ども・学習者中心になる。未来をつくるのは子どもだからだ。
だから、教師の役割は自ずとファシリテーションになる。
研究会で、コアプラスのアドバイザーでもあるふーみんさんが
「なんで持続可能な “開発(発展)”のための教育なんだろう。そこにもやっとする。」とつぶやいた。
なぜEducation for Sustainability ではいけないのか。確かに。
国連で採択されて、国が推進している時点で政治的に出てきたものであることは間違いない。
それに注意が必要であることは間違いない。
ただ、正直、ESDって呼ぶかどうかはどうでもいい。それはラベルでしかない。
ラベルは便利に使いつつ、それぞれの市民がやるべきだと思うことをやればいいのだと思う。
…と書いているうちに、電車の窓から遠くに富士山が見える。
手を止めて、しばし眺める。とても美しいと思う。
時々車窓を流れる雑木林も、秋の色に染まっている。
(今、西武池袋線で飯能駅に向かっている。今日は自由の森学園に行くのだ。)
私は、私たちは、どんな未来を見たいのかーー。
深呼吸したくなるような、豊かな自然を残したい。
戦争や紛争や貧困や飢餓で死ぬ人がいないようにしたい。
テロが起こらないようにしたい。
違いのある人たちが互いに尊重し協力し合える未来がいい。
孤独死や虐待がないようにしたい。
安全で安心な食べ物を食べたい。
人や自然を傷つけないプロセスでつくられた物を買いたい。
ホームレスにならなくていいようにしたい。
みんなが自分らしくはたらきながら、心地よく暮らしていける未来がいい。
頭だけではなく、心と身体を使って、学ぶ、はたらく、人と関わる、物事を見る。
数字で捉えられない、目には見えないものにも思いをはせる。
私、いつか現場を持つながら、ESDの実践がやりたいな。
ESDスクールとかつくろうかな。そのためにも、ESD研究会は、ガシッとやりたいな。
* * *
ESDに興味がわいた人におすすめなのはこの本。一番わかりやすくて、包括的。
実践書ではないけど、コンセプトとそれに関連する所項目がまとまっている。
北星余市高校の閉校検討のニュースを受けて。
北星学園余市高等学校を知っていますか?
北海道のワインとウイスキーの町・余市町にある私立高校です。
義家さんの「ヤンキー先生母校へ帰る」のモデルになった学校といえば、「ああ、あの高校か」と分かってもらえるのではないかと思います。
ずっと昔から、全国から、非行や不登校の若者を受け入れ、福祉機関や警察や町の下宿の人々ともネットワークを組みながらサポートし、社会へ送り出してきた、ものすごい学校です。
コアプラスも、北海道に訪れた際には見学や先生・生徒さんとの意見交換をさせていただき、夜も先生たちと飲み...とてもお世話になっています。
その北星余市高校について、今日、こんな報道がありました。
一部抜粋
北海道余市町の北星学園余市高(安河内敏校長、161人)を運営する学校法人北星学園(札幌)が、同校の生徒募集を2018年度に停止し、19年度末で閉校する方向で検討していることが分かった。同校は中途退学者の転入、編入を積極的に受け入れる高校の先駆けとして知られ、全国から生徒を集めたが、近年はフリースクールや同様の制度を設ける高校の増加で入学者数が減少。学校運営を続けることが難しくなったとみられる。
関係者によると、同法人は北星余市高の16年度の入学者数が、定員140人のうち学校運営に必要とされる90人に達しなかった場合に、17年度は引き続き生徒を募集するものの、18年度からは募集を停止し、19年度末で閉校する方向で調整している。
経営が苦しい、ということは以前から聞いていました。
北星学園が母体で、余市高校はその組織体の一部なので、単独で判断できないことも多々あるのだろうと思います。
生徒さんや、保護者の方や、先生方が悔しい思いでいらっしゃることを想像すると苦しいものがあります。
近年、学校が多様化し、選択肢が増えたことは良いことだと思います。
しかし、サポート校の中には、ほとんど学校に通わずに卒業できるところもあります。それが一概にいけないことだと言うつもりはありませんが、北星余市のすごいところは、何と言っても集団の力で生徒さんを支えている点です。
ただ高卒の資格さえ取れたらいいのだ、ということではなく、学校に通うことの意味、学校でしかできないことの価値を教育の中でしっかり紡いでこられた学校です。
大人になって高校に入り直したいと、北星余市に入学する人もいます。年齢のばらつきがある中で、支えたり支えられたり、刺激を受けたりする経験。
「なんでここに来たの?」それだけ聞けば、答えは十人十色で。
それぞれの傷つきや、つまづきや、挫折や、未来への希望や不安や期待を外に出しても大丈夫な風土が北星余市にはある。「みんなそれぞれ事情がある」という前提からスタートしているからこその、強みだと思います。
元引きこもりと元ヤンキーがたまたま同じ下宿になって、友達になって支え合うというようなことが、起きるのはここぐらいじゃないでしょうか。(ピースボートの上でも起きるけど。普通に日本社会で生活していてもあまりないことだと思います。)
人間は、生身の人間関係の中でこそ回復し力づけられるのだと、そして学校はそういうことができる場なのだと、北星余市で私は感じました。
なくなってしまうのはあまりに惜しい学校です。
先生たちも保護者も、生徒も卒業生も、まだ諦めていないのだと思います。
最近Facebookを見ていても、卒業生の声や、メディアで取り上げられた情報や、生徒のユニークな取り組みがよく流れてきます。
先日は安河内校長がクラウドファンディングに挑戦し、見事に達成されていました。
一部ご紹介しますが、とても面白いので、ぜひ1つでも2つでも読んだり見たりしてみてください。
私も、自分に何ができるか分からず、というかできることがほとんどなく、もどかしい思いでいますが、知ってもらうことはできるかな、と思い記事を書きました。
この学校のよさを感じてくださった方は、とりあえずFacebookで「北星余市の存続を願う会」を検索、いいね!して、情報をキャッチしてみてほしいです。
とにかく存続してほしいと心から願っています。
指示の声と、対話の声
多様性という言葉の多様性がややこしいんですよね、という話。
教育で言えば、例えば学校選択制とかフリースクール法制の話をする時に、推進派も反対派も「多様性の尊重・確保」のために...というようなことを言って、聞いてる人がしばしば「?」となるのはこの違いがあるためだ。
そんなわけで、いろんな人と関わることを大事にしたい。
誰か最後まで読んでくれるのだろうか(^^;;
ブログを続けるためのメモ
書き始めさえすれば書ける
スマホで書くほうが書ける
右脳でも書く
いつもゼロから考えなくていい
日記的なエピソードも書く
フランス同時テロによせて。
今朝は、実家で目を覚ます。
玄関に落ちていた新聞の一面。
「フランス同時テロ IS犯行声明」の見出しに涙が出た。
繰り返されて増幅する憎悪・悲しみ、負の連鎖はどうすれば断ち切れるのだろう。
オランド大統領による非常事態宣言、「我々は戦争に直面している」というコメント。
各国からのテロへの非難とフランスへの連帯・支援声明。
もちろんテロは許容すべきものではない。
亡くなった方や、その家族や恋人や、大切な人たちのことを想像すると本当に胸が苦しい。
でも、「テロに屈しない」「卑劣な行為」という強いコメントにもやもやした感情も覚える。
Facebookで広がっているフランスの国旗のアイコンにも、私はなんか違う、と思う。
テロを起こした人たちの味方はできない。ISのやっていることは確かに酷く、許せない。テロだけでなくシリアでやっていることも。
でも、それを引き起こしているものが何なのか、裏側もちゃんと見たい。知りたい。
今繰り返されているテロは、虐げられ、踏みつけられ、屈折してしまった弱者たちによる報復なのではないか。また、それら弱者の憎悪を利用する者たちによる犯行ではないのか。
それにまた、力(空爆)で抵抗して、何か解決するのだろうか。
終わりのない迷路に、堕ちていくだけではないか。
中東では、毎日のように、一般市民や子どもたちの頭の上に爆弾が降っている。
対テロ戦争という「正義」の名のもとに。
安倍首相は、「共通の価値観を奉ずるフランスが、いま困難に直面している。日本国民はフランス国民とともにある。 我々は結束を表明する」と述べたそうだ。
アメリカのオバマ大統領は今回のテロを「人類が共有する普遍的な価値への攻撃」として非難した。
そうかもしれない。いや、確かにそう言えると思う。
日本や欧米の国々が報じている普遍的な価値...おそらく、民主主義や、自由、人権の概念のことを言っているのだろう。そしてその価値は私も大切にしたいと思っている。
でも。紛争の原因をつくり、空爆で一般市民をたくさん死なせてテロの温床を生み出しているのは誰。テロリストと一般市民を一緒くたにして敵視して、ムスリムの人たちに社会不信を抱かせているのは誰。そのことに無知で無理解なのは、そこに思いをはせることができていないのは誰。
この世界における、中東の国々に暮らす人々と、先進国・欧米の命の価値の扱いは、客観的に言って、まったく平等じゃない。そのことに、先進国に生きる私は自覚的でいたい。
力に力で対抗しても状況はひどくなるばかりだろう。対話と政治の回路を見つけないといけない。夢見事のように思われるかもしれないけれど、それが根本解決に向けた最も現実的路線ではないか。
バタバタとした日常の中で、つい簡単に忘れそうになってしまうけれど、こうではない世界をつくりたいのだ。こうではない世界にしたいがために、仕事をしているのだ。
だからもっと勉強しないといけない。もっと考えないといけない。もっと人と向き合わないといけない。という思いを強くさせられた。
テロに遭い、尊い命を奪われた皆さんに心から哀悼の意を。
被害者にも加害者にもならなくていい、世界に一歩でも近づけたい。
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以下、私が、共感した記事を共有しておきます。