多様性を受けとめる学校づくりを。

今日は「未来の先生展にて、多様性を受けとめる学校づくり、と題してトークセッションをする。メンバーはいつもの仲間、恩田夏絵と室井舞花に加え、不登校新聞社の石井志昴くん、特別ベストとして前川前文科省事務次官も登壇する。

このテーマは、私がコアプラスの活動を通じて、どうにかしていきたいことの一番中心にある。先日、自分が教育現場に起こしたい変化を、「教室・学びの場」「学校・教育団体」「地域」「社会」というふうにエリア分けして整理し、結構スッキリしたのだが、その中で「教室」は、こうなって欲しいと書いた。

強いられる学びではなく、楽しい学びがある。
子どものウェルビーイングを促進する場である。(教育マルトリートメント)
1人ひとりのユニークさが祝福され、違いによって自分が損なわれない。
自分とは違う他者と、豊かに出会い、共に生きることを学ぶ場になっている。

日本中、そんな教室ばかりになればいいと切に願う。


「みんな違ってみんないい」という言葉を、標語のように学校でよく聞く。けれど、それを体現している教室は少ない。また、もちろんそれをつくるのは本当に大変なことだと思う。
現場で葛藤しながら、「みんな違ってみんないい教室」をつくろうという思いを手放さずに試行錯誤を続けている先生たちはすごいのだ。心底尊敬する。

多様性が受けとめられる教室づくりにはいくつかの条件があると思う。
以下で、必要十分条件だとは思わないが、必要条件だと思うことを書いてみる。

今後もっとブラッシュアップしていきたい。

●先生が、言葉を繊細に扱い、言葉に敏感であること。
特にマイノリティ性を持つ子どもたちにとって、先生が自分を理解してくれそうかというのは、しゃべっていたら分かる。
私は、よく教員研修で教室を飛び交っているような「言葉」をカードにしたものを用意し、それをディスカッションしながら「問題ない=青」「要注意・要配慮=黄」「問題あり・NG=赤」の信号カラーで分類するというワークしている。カードは「先生の言葉」と「子どもの言葉」で白と灰色で色分けしてある。例えばこういうものだ。

<先生の言葉>
・このプリントお母さんに渡してね。
・じゃあまず女子はこっちに並んで〜。
・みんなも、大人になったらちゃんと選挙に行かないとあかんよ。

<子どもの言葉>
・なんでいっつも順番抜かしするの!
・男同士でイチャイチャするなよ(笑)
・(地毛が金髪の子に対し)○○の髪の色、かっこいいよなあ!

黄色と赤に分類されたカードに関しては、なぜそう判断したのかの理由と、自分がその言葉に遭遇した時にどう対応するか・すべきかをそれぞれ考えていく、いったワークだ。

相談やカミングアウトをされる先生と、されない先生はパキッと別れる。相談される先生は、相談を受けることでさらに想像力が増し、配慮ができるようになる。
先生自身が普段いかに配慮ある言葉を使い、不用意な言葉に対して諌めたり注意したり、この言葉をこの子はどう受けとったかな…という想像力を持っていることが、教室の中の「居やすさ」を大きく左右する。先生の、言葉への対応が、同調圧力を強めることも、弱めることもある。

●子どもが自分の意見や気持ちを表現できる環境があること。
先生の想像力には限界がある。だから、今の教室・学校のあり方について、子どもたちと話せると素敵だなと思う。特に、ここが嫌だ、これがしんどいということを聞けるといいなと思う。それが、現状に対する否定や批判であっても、それを聴く姿勢を表現し、それを引き出す機会をつくる。
小さな子どもたちは、言葉で表現できないことも多い。そんな時は、見ることで知ろうとする必要があるかもしれない。場合によっては「問題行動」が、それを教えてくれるかもしれない。

また、かつて子どもだった、「学校が嫌いだった、しんどかった大人」の声から、学校がどう感じられていたかを学ぶこともできるのではないだろうか。

●システム(枠組み)にこどもを合わせるのではなく、こどもにシステムを(できる限り)合わせていくこと。

これが、一番難しいと思う。上記2つは、チームで取り組む方が効果は高いが、とはいえ個人内の努力である程度取り組んでいける。でも、これをやるには学校組織を変えていく必要を伴う。枠組みに合わせられる力をつけることがこの子のためだ、と考える人がまだまだ多い中で、子どもに合わせて、システムを変えていくというのは、戦いだ。覚悟がいる。他の先生と、そして教職員集団の中で、議論や対話を重ねる必要が出てくる。

合理的配慮という言葉が広がり、学校でも義務付けられた。これは、すごく大きなことで重要な流れだと思う。これをもっと広め、武器にしながら、内側からも外側からも学校を変えていけないか。

机の前の椅子に座って、ノートを取りながらずっと聞いている授業がしんどい子と、わいわい喋るグループワークがしんどい子が同じ教室にいる。じゃあどうする?
集団生活がベースの学校の中で、一人になれる空間を必要としている子がいる。じゃあどうする?
修学旅行で男女別に部屋分けがなされるのを辛いと感じる子がいる。じゃあどうする?

一つひとつのことに取り組んでいきたい。
ありがたいことに、すでに先人たちが、多様な授業スタイル、教室レイアウト、個別化の工夫・・・学校組織の中でしなやかに戦いながら、モデルケースをこれまでにもつくってきてくれている。海外の事例からも学べる。


自分自身も、もっと戦略を持って、もっと一つ一つの具体的な事例に向き合いながら、提案性のある発信をしていきたい。
学校の外で、先生ではない立場から、できることを、学校内の人たちとともに考え、つくっていきたい。

長くなってしまった。。
さあ、今日はどんな1日になるかな。

自分を生きることと社会変革の両立は可能か

この間のコアプラスのこと。
もとからそう、といえばそうなのだけれど、コアプラスのメンバーはおおむね自分勝手だ。私自身もそうだけど。納得できないと動けないし、コンディションによって働きにムラがあるし、プライベートが大事だし、ちゃんと暮らしを充実させたい。はらいふができてから、その傾向はさらに強まったと思う。

アプラスでよく出てくる言葉に「自分を生きる」とか「誰もが自分を生きられる社会」というのがある。それを目指す社会変革のプロセスの中で、仕事や活動が肥大化して、生活がおざなりになったり、メンバーが仕事に忙殺されるようなことは、大きな矛盾だ。これはソーシャルセクターで何か活動している人たちや、教育や福祉を仕事にしている人には、まったく珍しくない、よくある矛盾だと思う。でも、うちのメンバーはその矛盾に敏感。「社会変革に邁進して、毎日コンビニ弁当の人とか信用できひん」「社会変革とかいって、家庭で子育てを担ってない活動家なんかクソや」という具合である。

私はというと、けっこうワーカホリックで、社会変革が私の「自分を生きる」の中心軸にある感じ。ダメだと思いつつ、毎日コンビニごはんになってしまうことも珍しくない。比重が社会変革の方に傾きがちである。逆に、「丁寧に暮らすことがすなわち社会を変えること」みたいに言ってる人を見ると、「たとえば節電さえしてたら原発止まるんか?」と苛立ってしまう。

結論からいうと、やっぱどっちも追求しなきゃいけないよね、ということだ。そして、コアプラスは「自分を生きる」に比重が傾きがちで、私は「社会変革」に傾きがち。どっちもセットで追求していけるようにしたい。これって、ワークライフバランスの実現、よりもさらに数段難しいと思う。まずは、その両立に取り組んでいこうよ、ということを、合意するところから。まずは、ミッション、ビジョンの共有、出したいインパクトの質や量のイメージを共有し、みんなでコミットするところから。今それに取り組もうとしているけれど、なかなか抵抗感が大きい。

自分を生きることと社会変革の両立。それを実現しているロールモデルは、実はあまりいない。思い当たる人は数人いるけれど。だからこそ、新しいモデルを打ち立てていきたい。

さあ、明日はどんな一日になるかな。

 

忘れてたけど、私、映画が好きです。

今日雨宿り的にツタヤに入った。
久しぶりに映画のDVDがズラリと並んでいるのを見て、なんて長い間、ろくに映画を見てないんだろうと衝撃を受ける。

高校生の時は月に2本は映画館で見て、DVD借りて2、3本見てた。
ミニシアター系の邦画やヨーロッパ映画が好きで、今はなきガーデンシネマによく1人で通った。1回行くと、予告編やチラシで、次に見たい作品がでてきて、また行く。

高校・大学の頃好きだったのでいうと...「ジョゼと虎と魚たち」「きょうのできごと」「アメリ」「スワロウテイル」「リリィシュシュのすべて」「ハッシュ!」「リトルダンサー」「地雷を踏んだらサヨウナラ」「私立探偵濱マイク」「ショコラ」「蝶の舌」「ゆれる」「誰も知らない」ホテルハイビスカス」とか。

ガーデンシネマは、春は、下のお花畑が見えてきれいで、特に好きだったなー。

とりあえず、次の休みには映画を見ることにしよう。できれば映画館で。

自分の立ち位置

昨日の、とあるお二方のやりとりを読みながら、わたしは自分の立ち位置がよくわかってないなあ、と思う。
実践者でも研究者でもない感じがする。

刺激しながら、揺らしながら、支えもしたいし、守る必要も強く感じる。
研究者のようなことを言うのも、実践者にようなことを言うのも、おこがましいような気がする。結局どっちも中途半端で追究できていないからだ。

怒らなくなったのか、怒れなくなったのか。多分どっちもだ。

自分は弱くて、でもだから、みんなそうなのだろうと思う。
そして、そこが出発点だと思えていることは、自分でもいいと思うのだけど、今の自分はそこからどこにも進めていない(のかもしれない)。

最近は、それでいいや、とにかく感覚と身体が向く方へいこう、向くことをやろう、と思ってあまり考えずに来た。
けれど、これでいいのか分からない。

実は東淀川区の区政委員になりました。

今日の夜は、co-arcで大好きな「食べたことのないものを食べる部」が開催されていたのですが、それをパスして、東淀川区役所へ。

実は私、昨年秋から、東淀川区の区政会議の委員(公募)になったのです。

▼区政委員とは...
区政会議とは、区民の声を区政に反映させるため、平成23年7月より始まった会議で、区政会議委員はまちのにぎわいや防災・減災、交通安全・防犯、福祉や保健、子育てなど、東淀川区の区政やまちづくりに関するさまざまなテーマについて意見・評価をするという人たちです。

※ 詳しくはこちら↓ 

大阪市 東淀川区 より住みやすい東淀川区の実現を一緒に考えてください!東淀川区区政会議委員を募集します!

 

40人以上メンバーがいるということで、本会議以外に、テーマごとにいろいろな部会に分かれて話し合うのですが、今日は私は「子育て教育部会(仮)」に参加。

いやー、非常に勉強になりました!
住んでいる区にどんな子育て支援や、教育支援の施策があるのか、
まとまった情報を提示してくれたうえで、意見交換をできるので、
情報のインプットも多く(区の職員さんの説明もわかりやすい)、しかも子育て経験者や、長年地域活動をされてきた方の声を聞くことができる。

地域のことを知りたいと思っている私にとってはとてもとても有意義でした。
少しでも、区独自の施策づくりのお役に立てるように、勉強していき、積極的にいろんな提案をしていきたいなと思っています。
がんばろーう。

自由の森学園の音楽祭

気持ちよさそうに歌う人たちを見るのは幸せだ。

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12月18日、念願叶って自由の森学園の音楽祭に行ってきた。
自森の音楽祭は2日間使って実施されるのだが、私達が訪れたのは2日目。
クラス合唱と学年合唱と、全校合唱と、フィナーレが行われる。

 

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以前から、自由の森の生徒たちの表現に触れることが好きだ。
初めて訪れた際、学習発表会で『世界とつながる』という授業で1学期間学んだことを、ステージで語っている生徒の言葉に、涙が出た。
間違いなく、彼女の頭と心と身体を通って紡がれた彼女の言葉だと感じた。
自分の考えや感覚を手放さないで、あくまでも自分を出発点に、世界とつながる過程。
それを表現にかえて、他者と共有しようとする。
そこに社会をつくる、世界が変わる"芽"のようなものを感じて感動したのだと今になって思う。

絵もすごい。同じカラスの剥製をみて、同じ「森」というテーマで、まったくバラバラの絵が生まれる。

2年間かけて丸太から椅子を彫り出す。ここまでくると、「育てる」みたいな感覚になりそうだ。

 * * *

さて今回の話。

クラスごとの合唱。それぞれのクラスで話し合って決めた歌を、クラスによっては演出を加えながら、歌う。ピアノの位置も、歌う場所のレイアウトも、クラスごとに毎回変わる。

 

音響や照明も生徒がしていた。

 

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MCも生徒が担当。次のクラスが歌う準備ができるまで、スターウォーズの話でつなぐなど、MC力が高い(笑)

内輪受け感はあるけれど、彼らのための行事なのだから問題ないと私は思う。

 

MCによるクラス紹介の中で、「クラスのアイドル」を聞くという項目があった。

かっこいい人、かわいい人を聞く、というようなニュアンスで、「このコーナー、ちょっと微妙だな」と私は正直思った。私と同じようなことに引っかかりを覚える先生が自由の森にいないとは思いにくい。でも、ここにストップをかけないのが自由の森っぽいかも、と思ったりもする。

規制が先立つと、表現のハードルが上がる。「とりあえず出してみる」ということ損なわれる。生徒が今どんなステップにいて、以前、「鶏を食べる話と少年兵の話を同列に扱っていて、あれは違うと思う」と鬼沢さんが言った。でも、それを本人に今いうか言わないか、考えているように感じる。バランスを取っている。

 

自由の森学園では合唱に立つこと、歌うことは強制されない。出なくてもいい。というか、「だって無理やり引っ張ってきて歌わせることなんて不可能でしょ?」という感じ。そりゃそうだ。本来的にはそのはず。
もともとクラスの人数も多くないので、それに加えて出ない人が多いと、そのクラス合唱の人数はけっこう少なくなる。やはり人数が少ないと迫力に欠けたり、さみしい感じはある。

でも、歌いたい人が歌っている合唱はすごくって、感動する。歌いながら身体が動く。表情もさまざま。とても気持ちよさそうな子や絞り出すように声を出す子が多いのが印象的。

 

ステージで歌うということは私にとっては特別なことだ。彼らにとっても一定程度はそうなのだろうけど、なんというか、もっと「普通」っていう感じがする。歌うことは特別なことではなくて、暮らすことや学ぶことの中に溶け込んでいるみたい。それでいて生きるエネルギーの発露のよう。
多分、歌うことだけじゃなくて、言葉を紡ぐことも、絵を描くことも、ものをつくることも、踊ることも。それぞれ自分の気持ちのよい方法で表現をすることができるって尊いなぁ。

生きることは表現することなのかもしれない。そう思うと、息ができなくなるようなことがなんて多いのだろう。また、息の吸い方としての"表現"の術を持たない人もきっと多いだろう。

 

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全校合唱は圧巻だった。すごい。

このあと、会は一旦締められ、フィナーレへ。フィナーレは、さながらクラブイベントのような状態になる。

有志のバンドが演奏し、生徒たちが飛び跳ね歌い踊る。

一部保護者も歌って踊る。

中1から高3までいる中で、体格差もあって、激しくやり過ぎるとぶつかってケガがでたりする可能性もあり、それを実行委員の生徒たちが時々注意を呼びかけるシーンもあった。注意されて反発を示す生徒もいて、「ああ、ここには常に"自由とは何だ?!"というテーマが横たわっているのだな」と改めて思う。

 

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いい1日だった。自由の森にはいつも、元気と発見と、問いをもらう。

きっと数年以内にまた音楽祭に行くのだろうけど、その時はまた違うことを思うんだろうな。楽しみ。

てづくりのみりょく

昔、箕面こどもの森学園の芳仲さんが、

「ぼくにとっては、チーズづくりも学校づくりも同じこと」と言っていた。

芳仲さんは、なんでも自分でつくってしまう人だ。
てづくりのジャムなどを何度かいただいたことがあるが、めちゃくちゃおいしい。

最初は何の話かと思ったけれど、ようするにこういうことだった。
「家も、電気も、食べ物もほんとは自分でつくれる。だけど、多くの人は、買わないと手に入らないと思い込んでしまっている。それでは消費者でしかいられない。既製品の中から選ぶしかない。(当時は)電気なんて選べもしない。なんでも自分でつくれる、と知ることで人は自由になれる。手に入れたいものは、本当は生み出せる。」

私は、これは素敵だな、と直感的に思った。
自分でつくれるということは、加担したくない大きなシステムに加担しなくて済む、ということでもある。

 * * *

なんかでかいことから書き始めてしまった。。てづくりが楽しいということを書こうと思っただけなのに(笑)

いろいろつくっています。

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そもそも、co-arcはDIYで改装しました。多くの人の協力のおかげでできました。(写真を見返すと改めてありがたい...)

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お友達の西原さんに柚子を大量にいただいたので、柚子まつり。
柚子酒(ホワイトリカー/日本酒/焼酎)、柚子茶、柚子味噌、柚子胡椒、ぽん酢。


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これはco-arc夜間学校の「てづくり部」でつくったアクリルたわし。

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うで編みマフラー。簡単で30分ぐらいでできた。(モデルはなおちゃん)
今度27日に、てづくり部やります^^

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そして、これは昨日。co-arc夜間学校でパンをつくりました。
パンは、発酵して2倍ぐらいに膨らんだりするので、「育ててる感」があって、かわいい。
先生は、D×Pで知り合った中西みちるちゃん。みちるちゃんがパンが大好きなことが伝わって、触発される。またつくろー!と思った。

そんなわけで、いろいろつくるのって楽しいですよ、という記事でした。
(ほんさん、書きましたよ!笑)